やりたいこと、やるべきことをやらないでいるのが得意
前回の自分語り[1]に引き続き雑自分語りシリーズその 2 である。 今回は、タイトル通り私はやりたいこともやるべきこともやらずに放置するのが得意で困るなあという話。
まず、私はやりたいなあと思っていることをやらずにいることが得意である。 読書をしたいなあと思っているが読書をしない、ということに罪悪感を感じないし、お絵描きを練習したいなあと思いつつ始めない自分にも全然罪悪感を感じない。
例えば、過去に小説を今年は書きたいと書いて[2]から何も小説を書くための作業をほとんどしていない。 しかし、当の本人である私は一向に何も気に病んでいないし、すこぶるご機嫌に過ごしているのである。 やりたいと宣言したはずのことをやらずにいるのに、である。
SNS を見ていると、世の中にはお絵描きをやらないと罪悪感を感じてしまうような人もいるように思える。 SNS 上には「最近イラストをアップロードしていないから人権ない」みたいなことを言っている人がいる気がする。 ここで言う人権の使い方はなかなか問題がある気もしないではないが、まあ要するに自分の存在価値と行為が密接に紐づいており、やりたいことではあるもののやらなければ自分の価値を認められない、みたいなところまでいっているのかもしれない。
これは気に病んでメンタルが不安定になっているなら問題だろうけど、そうでないなら自分でやろうと決めたことをやり遂げる力とは立派だし、自分を律することができて素晴らしいように思う。 それに対して私は、もはや自分を律することができていないのかもしれない。
そして、困ったことに私は「やりたいこと」どころか「やらなければならないこと」であったとしてもギリギリまでサボり続けられるのである。 もちろん仕事とかで外部要因でやらねばならないことは期日までに仕上げる必要があり、サボり続けていたら最終日に大変なことになるので少しずつ進めはするが。。。 例えば自分の中でこれはやると決めたことややるべきだと強く感じていることも、やらずにいる。筋トレとか運動とか食事の調整とか全部やったほうが良いしやるべきことなのだけど、まあやらないよね。
そして、問題はやらないでいることに罪悪感を感じずに、普通に日々を過ごせてしまうことである。
昔を振り返ると、昔の私はこんな大雑把でだらしない人ではなかった気がする。 昔の自分が今の自分を見ると、あまりのだらしなさに叱責するに違いない。
自分が一番真面目だったのは中高生だった頃のように思う。 その当時は完璧主義的で、やるべきことこなすべきことは完璧にやるべきだし、そうすることこそ気持ちよく生きることだと信じていた。 学校から出る課題などはきちんと全部こなしていくべきだと考えていた。
この考えがぶち壊されるのは高校時代のことで、高校時代に各々の教科の担当の教員がありえない量の課題を出してきて、英語の教員は 1 日に英語を 3 時間やれ、数学の教員も 3 時間やれ、国語の教員も 2 時間はやるべき、生物や物理化学の教員も 1 時間ずつやれと言い、さらに文武両道で部活動をちゃんとやってこその学生生活だと言われていた。 これを真面目に実施しようとして、ぶっ倒れるわけだが、まあ要領の良い同級生は適当に必要な課題だけをやっていたものだった。 教員は学生の将来の進路を人質に取り「この問題集を 2 週やりきれば合格にも一歩近づく(逆にこの問題集をやり通せない人は合格できないと暗に言っている)」みたいなことを言ってきて当時の私は参ってしまった。
で、参ってしまった結果、ノイローゼであまり勉強に手を付けられないまま高校時代が終わったのだが、まあ終わってみると全然勉強に手を付けられていなかったにもかかわらず、わずかに授業中に解いた問題とかそれだけからもそれなりに内容を吸収していて多少は勉強も頭に入っていたんだなあとも思った。
それからである。 完璧にやらなくても、自分のペースで少しずつ進めていれば、たとえ目標に届かなくても当初の目標数が終わらなくても、何か得ているものはあるし成長しているものはあると考えるようになったのは。
それ以降は転げ落ちるように完璧さから遠ざかってしまった。 僅かでも手をつけていれば何か前に進んでいるのだし良いだろう、と感じでしまう。 物事は何も終わらせられなくなったし、完璧に物語を実行することが何も出来なくなってしまった。
そして、なんと最近ではその考えがさらに押し進んでしまっている。 当時は、たとえ完璧でなくても少しは手をつけていれば学ぶものもあるはずだ、という完璧から離れはしたが、まだ「やる」ということは考えていた。 しかし、もう今となってはやらなくたって良いじゃないかというところまで考えが後退している。
別に今やらなくてもいつかやろうと思っていれば、そのうちやるかもしれないし、確率的に手をつけるかもしれないということは期待値はプラスである。 確率的には何か学ぶ可能性もあるのである。 だから良いのである。
そんなわけないのである。 しかし、上述のような思考がもう私にはインストールされてしまい、物事を完璧にできないどころか、物事をやらずに放置していても心穏やかでいられるようになってしまったのである。 完璧でなくても何かやっていれば得るものがある、から、そもそもやらなくてもよいや、というところまで行き着いてしまうなどとは、一体誰が予想したであろうか。 なんてことだ。
心が穏やかで過ごせるというただ一点においては手に入れてよかった思想だと思う。 でも、それ以外の観点からすればあまりにだらしないし何事も成し遂げることができない残念な人間になってしまったという状況でしかない。 中高生時代の私が今の私を見たら泣くだろうなあ。。。