AIコーディング時代の自分で手を動かさないことによる真の理解から遠ざかってる感
いくつか昔を懐かしむツイートをした。
「○○はC言語でできており、C言語はメモリ安全じゃないから危ないのだ」と呪文のように唱えることで何かを理解していると思っている人の中には、メモリ安全とは何か、危ないというのは具体的に何がどう危ないのかについて何も把握していないのに
— 折登 樹 (@MatchaChoco010) 2026年10月31日
手を動かしたり原理をちゃんと学んだりしてそういうちゃんとしたソリッドな理解を一度もしたことがないような人と話をすると話が通じないことがある。その程度では完全な理解とは呼べない内容を真の理解と同程度の理解だと考えて専門性ある人にお説教したりするからなあ。
— 折登 樹 (@MatchaChoco010) 2026年10月31日
修士の学生時代に単位のために学際なんちゃらコミュニケーションみたいな謎の講義を取ったら、私がコンピュータサイエンスの専門であることを知って「君となら面白いことができそうだね」とか言って私にプログラムを書かせてタダ働きさせようとしてきた人がいて、その人が典型的なこういう人だったわ。 https://t.co/WSVBrQgmOF
— 折登 樹 (@MatchaChoco010) 2026年10月31日
あれは本当に純真無垢な目で私のことをコンピュータばかり触っている可哀想な人だと見ており、彼の浅いアイデアを手伝わせるのが真にお互いハッピーになるのだと本気で信じているナチュラル失礼な奴だったなあ。
— 折登 樹 (@MatchaChoco010) 2026年10月31日
(意味もなく不愉快な過去を思い出して不愉快になるやつをやっている)


久々に当時の怒りを思い出したが、しかし思えば AI 時代になってコードベースに対するソリッドな理解を手放すことも増えたなあという微妙な心持ちになる。
AI でバイブコーディングで何かを作るのは、もはや後で見ているだけで自分で動いて何かを成し遂げていない感覚がある。 そして自分で手を動かしてないのにわかった気になっているやつのことは、頭だけで理屈を理解していれば十分語れるんだと思っているやつのことは相当嫌いなタイプの人間だったはずなのになあという気はする。
上記ツイートのようなわかった気になっているだけで本当の知識を持っていないだけの詐欺師みたいなやつは大っ嫌いだったはずなのになあ。 曇りなき眼で対等の立場だと信じて、自分はその問題を十分知っているし相手の方が専門ではあるから敬意を持っているように振る舞うけど、というようなナチュラル失礼な態度を本気で嫌っていたし、そういう連中のような中途半端な理解ではなくソリッドな理解をすることこそ良しとしていたはずなのだけど。
あるいはエンジニアリングは上流工程と下流工程に分けれると信じているような人たちとか。 手を動かして作らないとわからないことがあり、手を動かしながら作るからこそアーキテクチャにも理解が及んでいくということを認めたがらず、手を動かさずに理解だけできると信じている人間のことは、そういう手を動かして得られるソリッドな理解を軽視する人間は本当に嫌いだったはずなのに。
手を動かして作るところまでやらないと理解できない詳細があるはずで、それをせずになんとなく全体がどういうものかの知識を持っているというだけですべてを理解して対等であるつもりで話す頭でっかちが全く好きではなかったはずなのに。
AI によって自分で手を動かしてコードを書かなくてもよくなったが、そうやって自分で手を動かす側から離れていくということが、自分で手を動かすことの良さを知っている身からすると微妙な心持ちになる。
というか自分で手を動かさないで、その程度の理解をちゃんと手を動かした人の理解と質が違うということも知らずに、その程度の理解で何かを語ったり対等の土俵だと言わんばかりの態度の人間のシャバさを知っていると、そういう手を動かさない人間と同類になることに受け入れ難さがあってなんだかなあという気分になる。
まあ、AI で開発するのは便利だし楽しいから使っていくけどね。
AI での開発は便利で楽しいと思っているけれども、その一方で何か微妙なモヤモヤした心持ちがずっとあったけど、こういうようなことなんだろうなあと整理されつつある今日この頃。
もう少し趣味開発ではコードの中身をちゃんと読んで理解する開発とかをやっていって、理解を手放さないで開発を進めるという体験も大事にしていっても良いかもしれないわね。