アロマンティックとかリレーションシップ・アナーキーとかの概念を知った
はじめに
前回の記事[1]は、私は恋愛対象が異性同性かという話以上に、そもそも恋愛感情を持つことが当たり前かどうかという軸が気になるということが何となく書かれていました。 また、そもそも「彼女がいるのか?」みたいな話題を日常会話としてするような、そういう恋愛をすべての人がする前提の会話がなされる場所にいたことがあまりないので、世の中にそういう話題をする人が場合によっては多くいるということなのか?という疑問とかも書いていました。
前回の記事は自分の思ったことをとりあえず書き出してみて整理してみるという感覚が強いものだったわけですが、書き出してみてもなお自分で整理しきれない感じがあったので ChatGPT に昨日の記事を投げてどう思うかというのを雑に聞いてみました。 するとそこで「アロマンティック」という概念と「リレーションシップ・アナーキー」という概念を紹介されました。
これらの概念が面白かったので、この記事ではそれらの概念を知って私がどう思ったかとかを軽くメモします。
「アロマンティック」「リレーションシップ・アナーキー」
「アロマンティック」と「リレーションシップ・アナーキー」はそれぞれ別の概念ではあるものの、前回の私の記事で書きなぐったことを読んで関連があるのではないかと ChatGPT が提示してきたものです。
アロマンティックは恋愛的に惹かれるという経験がないとか薄いというような恋愛的指向のことで、リレーションシップ・アナーキーは関係の名前からどういう内容かを自動的に決めたりせずに当事者同士でどこまでお互いにどういう責任を負うかとかをちゃんと話し合って決めよう、みたいな考え方らしい。
アロマンティックに関して言えば、前回の記事で私は結構恋愛感情が当然としていることを嫌っているような文章を書いているが、しかし自分が何かそういう特殊な指向だというような感覚はないので、自分がそれなのかどうかというのは全くわからんし保留という感じではある。
リレーションシップ・アナーキーに関しては、アナーキーというと秩序とか政府とかに反対するのかという感じがするけど、そうではなくて既存の権威や支配的なものを疑って、当事者の間で自律的にどのように協力するかというのをちゃんと決めていこうということらしい。 前回の記事でパートナーの間でも暗黙の間に相手を束縛することを嫌い、ちゃんとお互いに事前に相手が病気になったときに助けるとかそういうことを契約しておいて、その上で責任を持ってパートナーをやりたい、みたいなことを書いたのはだいぶこの考え方と通ずるものがありそう。
と、書いてみたものの、正直私は ChatGPT に上記 2 つの単語を紹介されたばっかりで詳しいことは何もわからないので、まずは以下に ChatGPT に聞いた内容をメモする形でそれぞれの概念がどういうものかを書いておこうと思う。
アロマンティックとは by ChatGPT
アロマンティックは、一般には「他者への恋愛的な惹かれを、まったく、またはほとんど経験しない」ことを指します。 英語では aromantic、略して aro といいます。「指向」は、誰にどのように惹かれるか、あるいは惹かれないかという傾向を指す言葉です。当事者団体 AUREA は、これを中心的な説明としつつ、恋愛についての経験が社会で当然とされる形に当てはまらない人を含む、より広い用法も紹介しています。
ここでいう「恋愛的な惹かれ」は、特定の相手に対して、恋愛としての親密な関わりを持ちたいと感じることです。ただし、恋愛感情を他の感情から完全に切り分ける、誰にでも適用できる単一の判定基準が確立しているわけではありません。研究でも、恋愛に含まれる親密さ、情熱、愛着、関係を続けようとする意思などを、どう区別し測定するかが問題になります。
たとえば、「その人と暮らしたい」「触れたい」「長く助け合いたい」という希望は、それだけで恋愛感情の証拠にはなりません。それらを恋愛として経験する人もいれば、恋愛とは感じない人もいます。そこで、少なくとも次の事柄を分けて考えます。
- 惹かれ: ある特定の人に対して、恋愛的・性的などの関心が生じること
- 関係への希望: 恋人、生活の協力者、親しい友人などを持ちたいと思うこと
- 行動: 交際する、同居する、キスする、性行為をすること
- 価値判断: 恋愛や結婚をどう評価するか、関係に何を求めるか
これらは関連しえますが、同じものではありません。アロマンティックで、パートナーがいる人や結婚している人もいます。相手との生活、親密さ、共同の目標などを望むことと、その相手に恋愛的に惹かれることは区別できます。
恋愛的な惹かれと性的な惹かれを分けると、アセクシュアルとの関係が明確になります。
アセクシュアル、英語で asexual、略して ace は、一般には他者への性的な惹かれをまったく、またはほとんど経験しないことです。したがって、次の組み合わせがありえます。
- アロマンティックかつアセクシュアル:恋愛的にも性的にも、他者にほとんど、またはまったく惹かれない。
- アロマンティックで、性的な惹かれはある:性的に惹かれる相手はいても、恋愛的には惹かれない。
- アセクシュアルで、恋愛的な惹かれはある:恋愛感情を持つ相手はいても、性的には惹かれない。
このように複数の惹かれを区別して記述する枠組みを、split attraction model、略して SAM と呼びます。全員にこの分類を使うことを求めるものではなく、自分の経験を説明するのに役立つ人が使う枠組みです。
なお、性的な惹かれと、特定の相手を対象としない性欲や自慰行為も別です。日本の当事者調査でも、アセクシュアルを自認する人に性欲や自慰行為があることは確認されています。
アロマンティック・スペクトラムという言葉は、経験の多様さを含めて表すために使われます。
「スペクトラム」は、ここでは単純に恋愛感情の強さを一本の物差しに並べることではありません。生じる頻度、条件、持続の仕方、その経験を本人がどう理解するかにも違いがあります。
- グレイロマンティック: 恋愛的な惹かれが非常にまれ、弱い、不安定など
- デミロマンティック: 相手との情緒的な結びつきができてからでなければ、恋愛的に惹かれない
- キューピオロマンティック: 恋愛的な惹かれを経験しないが、恋愛関係は望む
- クワロマンティック: 恋愛的・非恋愛的な惹かれを区別しにくい、あるいはその区別や概念が自分に適さないと感じる
デミロマンティックでは、情緒的な結びつきは惹かれが生じるための条件であって、親しくなれば必ず恋愛感情が生じるという意味ではありません。また、「惹かれてはいるが、よく知るまで交際を控える」という行動方針とも区別されます。これらは当事者が経験を記述するために作ってきた言葉で、全員が細かな分類を選ぶ必要はありません。
恋愛に対する快・不快も、別に記述されます。恋愛的な接し方を心地よく感じる romance-favorable、特に好ましくも不快でもない romance-indifferent、不快・嫌悪を感じる romance-averse / repulsed などです。相手、行為、状況によって変わる場合もあります。したがって、「恋愛に惹かれるか」と「恋愛的なやり取りが好きか」は、分けて考えられます。
歴史的には、アロマンティックは特定の研究者が一度に提案した理論というより、当事者同士の対話から形成された概念です。
現在につながる経緯で大きいのは、2000 年代の英語圏のオンライン・アセクシュアル・コミュニティです。性的に惹かれないという共通点があっても、恋愛感情については人によって違う。その違いを説明する必要から、恋愛的指向についての言葉が整えられていきました。
AUREA の歴史整理では、Yahoo のグループ「Haven for the Human Amoeba」における 2002 年の投稿が、初期の aromantic の使用例として挙げられています。また、アセクシュアルの交流・啓発サイト AVEN では、2005〜2006 年ごろの使用例があり、2008〜2009 年ごろには使用が増えていたとされています。これは発見された記録についての説明で、「2002 年に初めてそのような人が現れた」「初出が絶対に確定した」という意味ではありません。
その後は、アセクシュアルの一部としてだけ扱うのでは捉えきれない経験、特に性的な惹かれを持つアロマンティックの経験も含め、独自のコミュニティや情報発信が発展しました。2019 年には、認知・教育・権利擁護を目的とする AUREA のサイトが公開されています。
日本では、用語が英語圏と完全に同じ経路で広まったわけではありません。「アセクシュアル」を恋愛的・性的な惹かれの両方がない意味で使い、「ノンセクシュアル」を恋愛感情はあるが性的関係を望まない人などに使ってきた文脈があります。そのため、日本語の過去の記事を読むときは、単語だけで現在の用語に機械的に対応させず、筆者の定義を確認する必要があります。2020 年には日本語で大規模な Aro/Ace 当事者調査が行われ、その分析が研究として公表されています。
歴史上の独身者や結婚を拒んだ人を、その事実だけでアロマンティックと判断することはできません。結婚しなかった理由と、恋愛的に惹かれたかどうかは別だからです。現在のラベルが成立した歴史と、それに近い経験を持った人々の歴史は、分けて扱う必要があります。
当事者が訴えているのは、恋愛しない経験を存在しないことにせず、そのまま生きられるようにしてほしい、ということです。
もちろん全員が同じ主張をするわけではありませんが、当事者の記述や研究には次のような問題が現れます。
- 「まだ運命の人に会っていないだけ」「大人になれば分かる」などと、本人の経験を暫定的な未熟さとして扱われる。
- 恋愛をしないことから、冷たい、他人を大切にできないなどと人格を評価される。
- 望んでいない交際や恋愛的な振る舞いを、経験して当然のものとして求められる。
- 恋人以外の親しい関係や、パートナーを持たない生活が、人生の中心として認められにくい。
ここで、恋愛をしなくても友情や家族愛がある、と説明する当事者は多くいます。一方で、loveless aromantic という、自分を「愛」という概念で説明すること自体になじまない人たちもいます。「別の愛があるから人として認められる」という条件を、さらに課したくないという論点につながります。愛という語への自己認識と、他者への配慮や責任ある行動も、完全に同じものではありません。
自分がアロマンティックだと気づかないまま暮らしていることは、十分ありえます。
理由は、単に言葉を知らないことだけではありません。他人の恋愛感情を直接経験できないため、自分との違いを把握する手がかりが限られるからです。たとえば、AUREA の自己理解に関する説明には、次のような経験が挙げられています。
- 周囲が語る恋愛感情を、誇張した表現だと思っていた。
- 親しい相手への好意を、これが恋愛なのだろうと解釈していた。
- 恋人が欲しいとは思うが、実際の誰かに恋愛的に惹かれることはなかった。
- 恋愛について話題を振られたときだけ考え、普段は関心が向かなかった。
自己認識に使う言葉は、将来の感情を保証する宣言でもありません。今の経験を説明するために使い、その後の経験や理解に応じて見直すことができます。
リレーションシップ・アナーキーとは by ChatGPT
リレーションシップ・アナーキー(relationship anarchy、以下 RA)は、人間関係における支配や既定の序列を問い直す思想です。
ここでいうアナーキーは、何も決めず無秩序に暮らすという意味ではありません。アナーキズムの、上から与えられた権威や支配を問い、当事者による自律的な協力を重視する考え方を、親密な人間関係にも適用します。恋人、友人、性的パートナーなどの名前を付けた時点で、相手を支配する権限や関係の価値が自動的に決まるのか、という問いです。
初期の重要文献である Andie Nordgren の宣言では、相手への感情や共有した過去が、相手を命令・管理する権利を生むわけではないと述べられています。同時に、一緒に生活を築く、子どもを育てるといった長期的な取り組みに必要な責任や約束も認め、その内容を当事者同士で明確に決めることを勧めています。
具体的には、次のような考え方になります。
- 関係の名前から内容を一括して決めない。 恋人だから同居する、友人だから将来の生活には関与しない、と自動的には決めない。
- 親密さから支配権を導かない。 好きだから、長く一緒にいるから、という理由だけで相手の交友関係を管理できるとは考えない。
- 責任の内容を話し合う。 時間、住居、お金、ケア、身体的な接触などについて、それぞれが何を望み、何を引き受けるかを確認する。
そのための実用的な道具として、Relationship Anarchy Smorgasbord という、関係を構成する要素を列挙したシートも使われています。感情的な支え、身体的接触、性行為、同居、共同の仕事、介護などを分け、どれを共有したいかを話すためのものです。RA を名乗る人だけが使う道具ではありません。
ここから、「すべての人を同じだけ好きになり、同じ時間を使う」という結論は出ません。関係ごとに親密さ、信頼、積み重ね、引き受けた責任が異なることは、RA の文献でも認められています。問い直されるのは、恋愛関係という種類であることだけで他の関係より上位に置くことや、その地位を根拠に他者を支配することです。
たとえば、事前に介護を引き受けている人への対応を優先することには、具体的な必要と責任があります。「友人だから、恋人のどんな要望よりも必ず後回しにすべきだ」とすることとは、優先順位の根拠が違います。
RA は、ポリアモリーと重なりますが、同じものではありません。
ポリアモリーは、関係者の認識と合意のもとで、複数の人との恋愛関係を持つこと、またはその可能性を受け入れるあり方です。複数の恋愛関係があっても、恋愛関係を友情より常に優先したり、特定のパートナーに他の関係を打ち切らせる権限を与えたりする構造はありえます。RA は、人数に加えて、そうした序列や権限を問います。
一方、RA を支持していても、実際に恋愛や性的関係を持つ相手が一人、あるいは誰もいないことはありえます。Moen と Sørlie の倫理学的な論考は、「自分が一人の相手とだけ関係を持つこと」と「相手にも他者との関係を禁止すること」を明確に区別し、後者を厳しく批判しています。
この点では、RA を単に「本人同士が合意していれば、どんなルールでもよい」と説明すると不十分です。合意の存在だけでなく、その合意が支配を生んでいないか、相手が実際に断れる状態にあるかも問われます。 どこまでの排他性や条件が許されるかについて、すべての実践者が同じ答えを持っているわけではありません。
RA の成立には、2000 年代初頭のスウェーデンのクィア運動や対抗文化が深く関わっています。
Nordgren 自身の回顧では、ストックホルムの、ポリアモリー、アナーキストの政治活動、インタラクティブ・アート、技術を使った活動などが交わる環境から生まれたとされています。複数の人を愛せると分かっていても、既存のポリアモリーの実践には互いを管理する規則が残る。そこで、関係を構成する前提そのものを問い直した、という経緯です。
主な節目は次のように整理できます。
- 2005 年: Pérez-Cortés の歴史整理によると、ストックホルムのアナーキストの催しで Nordgren と Jon Jordas が関係について議論
- 2006 年: Nordgren のスウェーデン語の小冊子「Relationsanarki i 8 punkter」が刊行
- 2012 年: Nordgren 自身による英語への翻訳・改稿版「The short instructional manifesto for relationship anarchy」が公開
- 2010 年代後半以降: クィア・フェミニズムや関係の倫理として学術的にも論じられるようになる
- 2020 年/2022 年: Pérez-Cortés の単行本がスペイン語で刊行され、その後英語版が刊行
したがって、「2006 年に Nordgren が提唱した」は重要な刊行物を基準にした説明としては妥当ですが、それ以前の共同の議論を省略しています。
RA の実践者が訴えることには、個人の自由と、共同で支え合う関係の両方があります。
自分の恋愛や交友関係を自分で決めたいという要求に加えて、友情、共同生活、ケアのつながりを、恋愛や婚姻より下位に置かないことが重視されます。政治的な RA の議論では、家父長制や経済的な格差、ケアを誰が担うかといった問題にも踏み込みます。ここでいうケアは、病気の世話に限らず、人が生活を続けるための支援や配慮を含みます。
そのため、「他人の助けを一切必要とせず、各自が完全に独立していること」は RA の条件ではありません。助けを必要とすることと、その必要を利用されて支配されることは区別されます。自律性を守りながら依存や責任をどう組み立てるかも、この思想の課題です。
Nordgren は 2018 年の文章で、決まりをなくすだけでは、もともと力を持つ人が有利になる可能性を明示しています。関係の内容を毎回交渉する負担は、全員に等しいわけではありません。お金、住居、発言力などに差があれば、形式上は自由な合意でも、実際には一方だけが条件を選べることがあります。そのため、相手を守るために明確な取り決めが必要な場合もある、としています。
ここは RA の理想だけでなく、実践上の難しさを理解するうえでも大切です。「自由だから約束は無意味」「嫌なら離れればよい」だけでは、相手が実際に置かれている状況を扱えません。
RA についても、その言葉を知らないまま近い関係を築いている人はありえます。
ただし、アロマンティックの自己認識とは少し性格が違います。RA では、経験だけでなく、その人がどのような原則を支持し、実践しようとしているかが関わります。
友人との相互扶助を中心に生活してきた人が、後から RA を知り、自分の考えを説明するのに役立つと感じることはあります。一方で、似た実践をしていても、その政治思想や名称には賛同しない人もいるでしょう。「あなたは気づいていないだけで RA だ」と外から決めるより、すでに持っていた考えと、後から出会った思想の共通点を見いだすと表現するほうが適切です。Pérez-Cortés も、RA という名称を採用せずに、近い原則を実践してきた人々や共同体に言及しています。
ChatGPTのメモに対する感想
アロマンティックについて。
アセクシャルとは別であるとわざわざ書かれていることが興味深い。 そもそも恋愛的な惹かれをしないというのと、性的欲求の話は全く別な気がするが、一般には恋愛しないというのと性的欲求がないというのが一緒くたにされやすいような、そんな解像度が世の中で一般なのかしら?
アロマンティックについて自分がどうなのかというのはよくわからんけど、アロマンティックの人が訴えているらしい以下のようなものは私も普通に気持ち悪いなと思うので、思想としては調べてみると面白そうではある。
- 「まだ運命の人に会っていないだけ」「大人になれば分かる」などと、本人の経験を暫定的な未熟さとして扱われる。
- 恋愛をしないことから、冷たい、他人を大切にできないなどと人格を評価される。
- 望んでいない交際や恋愛的な振る舞いを、経験して当然のものとして求められる。
- 恋人以外の親しい関係や、パートナーを持たない生活が、人生の中心として認められにくい。
リレーションシップ・アナーキーについて。
こちらは色々な社会制度まで含めた話のようなので自分の興味範囲よりさらに広い話のような気もする。
そしてここでもリレーションシップ・アナーキーはポリモアリーと重なるが同じではないと書かれていることが興味深い。 個人的には複数の人と恋愛関係を持つそういう関係のあり方を考えるというのと、そもそも恋愛関係とかそういうパートナーのあり方を見直したいという話で全然趣が違うと思うが、そこを混同する人がいるからわざわざ注記しているのか? 個人的には複数人と恋愛したいとは思わないしパートナーはひとりで良いと思うが、そのパートナーとの間で何を責任を持ってどういうことを相手に期待するかを事前にちゃんとすり合わせるべきで、それは世の中の規範的な恋愛とかそういうものとは関係なく本人たちでちゃんと決めるべき、と思っているという感じなので、ポリモアリーは全く自分とは遠い概念に感じるがリレーションシップ・アナーキーには一部自分に関係ある部分もあるのかもなと感じるというところ。
特に挙げられている以下の内容は、普通に誰もがすべきことだしそうするべきだろうし、そうなっていない社会はおかしくね?と思っているまであるので、結構この思想も調べてみると面白そうではある。
- 関係の名前から内容を一括して決めない。 恋人だから同居する、友人だから将来の生活には関与しない、と自動的には決めない。
- 親密さから支配権を導かない。 好きだから、長く一緒にいるから、という理由だけで相手の交友関係を管理できるとは考えない。
- 責任の内容を話し合う。 時間、住居、お金、ケア、身体的な接触などについて、それぞれが何を望み、何を引き受けるかを確認する。
それはそれとして、これらの概念は自分が前回の記事で主張したり、あるいは常に考えていたことと重なる部分があって面白いなと思う一方で、これらの概念について全然知らないので私自身がそれらの当事者かというとそういう気はあまりしないし、別に当事者を名乗るつもりはあまりないけれども。
前回の記事について
そして、改めてこれらの概念とかも知った上で前回の記事[1]を見直してみると冷静になってみると結構攻撃的なことを書いていて面白いなと思う。
この記事を書いて読み直すまでは、私自身は恋愛とかについてフラットにあまり強い感情を持っていないつもりだったのだけど、改めて読み直してみると、私は自分と異なる恋愛観を持ってそれを人に強いる人を結構はっきり嫌悪しているように見える。
前回の記事を読むと私は、他人に対して恋愛的なものが当たり前であるということを前提とする「彼女がいるのか?」という質問を投げかけるような行為について、現代的な文化的な人ならそんな品のないことはしないはずだ、と結構明確に嫌って見下している様が見て取れる。
しかしまあ、冷静になって見れば彼女について聞くのも一般にはごく普通の世間話なのかもしれないし、そういう質問を投げかける人が現代的ではなく下品で劣った種類の人間であるというよりは、そういう風に私が思いたいのだと思う。 私自身の中にある嫌悪感を、それらの人が現代的な自由の観点からいってありえない、品のない文化的ではない、現代的な文化人ならそうしないという評価を与えることで自分の好みを無理に正当化しようとしていたのでは?と見ることもできなくはない気もする。
前回の記事で、自由であるべきなのに束縛するのは父親が娘の学校進学を止めるようなものではないかと言ったりしていたが、まあ正直改めて見直してみると屁理屈だと言われうるような議論ではあるわな。
そして、前回の記事を公開する前の時点で私自身かなり攻撃的な見下しが含まれていることには気づいていたのですが、だからといってそれを削りたくないという思いがあって最初に断りを入れた上で公開したという経緯があります。
これは自分の中の恋愛を当然として他人に接する人への嫌悪の感情というのが、自分の中で結構重要なものであって、だから削りたくなかったのかなあという気もしないではない。
なんというか、世間一般なのかは知らないけれども、恋愛を当然として接する人に対して自分はかなりなかなかのただならぬこじれた感情があるようで。 昨日記事を書いて読み直すまでは、自分の中にそういう他人を見下したりしてまで恋愛を当然とする価値観が一般的であるとされることを嫌っていたのだ、ということも気づいてなくてフラットに恋愛というのは気にしていないというくらいだと思っていたので、自分が書いた文章の中にかなり攻撃的な見下しや嫌悪が含まれていたのは面白く感じたところです。
そもそも前回の記事を書いたのは、同性愛のアスリートのカミングアウトに対する意見に対する意見を見る過程で、クィアを自認している人の SNS のつぶやきを色々見たことがきっかけです。 その中で、クィアを名乗る人が SNS で恋愛をしたいのに性別を気にしないといけないのがつらいということを書いているのを多数見かけて、恋愛という素晴らしいものをしたいのに障壁があってつらいのだ、このつらさを一般の人はわからないというのを感情を込めて書いていたりするのを見かけました。 これらの発言ではそもそも恋愛というのは良いものであり素晴らしいものであり、それらに障害があるという訴えなので「恋愛は素晴らしいもの、すべての人が望むもの、これに障害があるのはひどいこと」というロジックなわけですが、これを見てたいへん心がざわついたというのが記事を書いたきっかけです。
そもそも恋愛というのが素晴らしくすべての人が望むものである、みたいなことが前提になってそうな言説を見て、自分の価値観と全く相容れないし。 さらにクィアを自認しているマイノリティ側である人でおおよそ他の人の価値観などについても普通の人なんかより配慮しているであろう人が、何の悪気もなく「恋愛は素晴らしくすべての人が望むものである」という考え方を内面化してそうな発言をしていたことに結構衝撃を受けたというのがあります。
前回の記事で、私の身の回りには「すべての人が恋愛をするべきだしするものだと思っている」というような人がいなかったことを多々書いていました。 自分の周りには「彼女がいるか?」ということを世間話として聞いてくるようなやつはいないということを何度か書いている。
しかしこれも、自分の身の回りでそういう恋愛的な話をする人からは距離をとってきたからなのかもしれない。 そもそも私には今も付き合いのある学生時代からの友人とかはいないし、仕事で話す人を除いてちゃんと友人だと言える人はなかなか数が少ないのですが。 もっと交流関係が広く友人関係が広かったら、そういう恋愛が素晴らしいものだと思う人がもっと身の回りにいて、もっと普段から心がざわついていたのかもしれない。
なんというか、恋愛的な指向とかを他人に暗黙に押し付けるような発言をする人のことを私は徹底的に見下して「現代的な人としてありえない」などと感じていたようだし、そうすると、まあそういうような人とは私は距離をとってきたのだろうなという気もしなくはない。 その結果、私の周りにそういうような人はいないという状況になっていたのかもしれないなあとは。
と、書きつつまだ本当に世の中にそういう恋愛が素晴らしいと考える人が多数派であるということはまだ疑っているけれども。。。 いや、だって、そんなことなくない? そんな恋愛がなんで人生をかける素晴らしいものだなんて極端な考えをするの、ドラマや映画の主人公でもないんだからそんな考え方をする人、現実にそうそういなくない?と思っているけれども。
まあこういうことを思っていられるのは私の親とかが恋愛至上主義的な考え方を押し付けたりしない人であることや、私の友人が良い人に囲まれていて私が人間関係に恵まれている、もしくは私に友人が少ないため問題になることが少なかった、あるいはその両方なのかもしれない。 現状の人間関係では恵まれた人に囲まれていることについては感謝をしておこう。
うーん、結局世間一般でどのくらい恋愛が素晴らしいものであると考える価値観が一般的なのですかね? 恋愛が素晴らしいと考えることまでは別に私は気にしないけど、恋愛が素晴らしいものだとすべての人が考えているはずだと考えているような人はちょっと受け入れられないなあ。
そもそも自分は恋愛を経験しないような人か?
そもそも自分は現状ではあまり恋愛というものを経験しなかったのだと思う。
唯一思い出せるのは小学校一年生のときにクラスの女の子に憧れたことがあるが、思い返してみるとそれはその子が学年で一番足が速く、そしてその足が速いというプロパティに憧れていただけで、人間として異性としてその人に恋焦がれていたかというとそうではないと思う。
しかし、別に私は恋愛を一切したくない、恋愛を拒絶したいというわけではないと思う。 もはやそんな歳ではないとはいえ、いつか何かのタイミングで出会って人に一目惚れして熱い恋愛をすることもなくはないと思っているし、そうなったらそうなったで恋愛を楽しむんだろうなという気はしながら暮らしてきてはいた。 もはや 20 代も終わってしまったので、そんな感じになることもないかなあと何となく諦めのムードは漂ってはいるが。
のだけど、まあこうやって前回の記事とかを見てみると、実は割と恋愛それ自体や恋愛を当然とする態度自体を結構私は嫌っていそうなことがわかってきて、なんだか難しいねという感じだわ。
一応、恋愛とか束縛が嫌というより、中身が曖昧なままに暗黙な了解で義務を負わせたり負わされたりすることが嫌なのだと思う。 恋愛における束縛はその一例というだけだから。 何かちゃんとお互いに了解した上でのパートナー関係とかなら受け入れられるし、そこに恋愛的な惹かれが芽生えることもあっても良さそうな気はするけどなあ。
なにより、私は自分が普通で正常だと本気で信じているのが若干タチが悪いのかも。
世の中にいるらしい恋愛を素晴らしいものだと信じて恋愛したいと信じている人のことを、言い方は悪いが精神異常者だと思って暮らしてきたのである。 前回の記事でも、恋愛というのを好きでそういう話題を話す人を、文化的ではないとか品がないとか言って、自分の方が正常でありそういう人は頭がおかしいやべー奴だとレッテル張りをしている。
まあ、これは結構よろしくないことな気がしている。 昨日までは自分がレッテル張りして他人を見下しているという事実に気がついていなかったが、改めて書き出してみると世の中に普通にいるらしい恋愛を楽しんでいる人にこうやってキツく当たって見下しているのは普通に社会適合の観点でよろしくないと思う。
そういう意味で、恋愛を楽しむ人たちや恋愛を当たり前であると思う人たちに対する態度とかそことの距離感の取り方は、まあ今後の課題かな。 少なくとも今のように見下してそのような人間はろくでもない人間だと関係を切り捨てていくような態度はあまり社会に生きる上で良い態度ではなかろう。
そして、そういう一般にいるとされている恋愛を楽しんだり恋愛を当たり前だと思う人たちとそうではない人との間の関係というのを学んだり整理したりする上では、「アロマンティック」という概念は知っておくと面白い概念かもしれない。
それはそれとして自分が「アロマンティック」か、というと全然よくわからんわね。
なにぶん自分が普通で自分と違う考えの人を品が無いと見下して生きてきたのだから、自分が中心であり自分が正規分布の中心から外れているかもだなんて考えたこともなかった。 前回の記事でも自分のことを LGBTQ+ではない側の人であるという自認で書いている。 が、この LGBTQ+の+の中には A が含まれることがあり、それがアセクシャルだったりアロマンティックだったりすることもあるらしい。
まあ、他人に恋愛が当然という立場を取られて気分が悪くなるというのを日常的に経験して、その上で自分の立場を説明しないといけないという状況になったら、「アロマンティック」であると名乗るのは便利なのかもしれないが、私は周囲の人たちに恵まれているおかげで違和を感じるタイミングは少なく生きてこれているし、そういう環境が続くなら自分の恋愛指向を説明するために自分にラベル付けしてラベルを名乗る必要も特にないだろうし。 自分がどういう恋愛指向かを定義づけて名乗る必要がないなら、基本的に保留しておいて自分がどういう立場か別に表明せずに生きていっても良いかなと。 こういうのは別にすぐに決める必要はないし、なんだったら一生立場を決める必要がないかもしれない。
そもそも、全然社会との違和に苦しんできたわけでもないし、深くこれらの指向について知っているわけでもないのに軽々しく名乗ってよいような類のものでもないだろうし。 当事者からしたら切実な問題なわけで、切実さを特に感じていない私はまあ気軽に名乗ったりするものでもないだろうという気はする。
そもそも恋愛的指向について表明しないといけないというのは理解できないし、普通に今でも恋愛的指向を表明しなければ「彼女はいるのか?」みたいな質問をされうるコミュニティがあるらしいというのを全く信じられてはいないが。
おわりに
ということで ChatGPT に聞いてみたら興味深い概念の存在を知ることができたという記事でした。
自分はあんまり当事者なのかよくわかっていないが、それはそれとして興味ある考え方ではあるしより深掘りしてみるのは面白そうなので、また後で次のような本とか読んでみようかなと思う。
「アセクシュアル アロマンティック入門」松浦優 集英社新書
「A はアセクシュアルの A「恋愛」から遠く離れて」川野芽生リトルモア
こうしてまた積読が増えていくのだった。