春告げ抹茶ホイップ

知識の量と、リスペクト vs 好きにやらせろの関係

shivadukeさん[1]のツイートを見て自分も同じようなことをごちゃごちゃ考えてたので、適当に考えたこととかをメモっておきます。

先人たちにリスペクトを持とう!という気持ちと、文脈とかなんとかゴチャゴチャうるせー!好きにやらせてくれ!という気持ちが両立していて、矛盾しているように思うが、成立するような気もしており、あまり答えが出ていないままだ。

知識があればリスペクトや文脈を前提にした考えができるが、そうでない領域は自由にさせろと思いたくなるのかもしれない。 そしてすべてに知識をつけるのは無理だから、自分の知識が薄い領域などの特定の領域では、本来知識があれば文脈に位置づけたほうが良いと思っていたようなことを、無意識に傲慢にも文脈に位置づけることを放棄してその態度を省みることもない、ということには自覚的になっておいても良いかもなあ、という話。


これに関連して、特に芸術活動とかの観点から、先人へのリスペクトとか文脈を考えることについて雑多に書いていきます。 特にまとまりも話の構成もあるわけではないので、思ったことをそれぞれのセクションで雑に書きなぐっているし、セクション分け自体適当で正しくもない気もするが、まあそういう記事もある。


知識があると不自由?

何か創作を行うためにその分野での過去の先人の事例を知らないといけないということはなく、普通に昔の人のこととか碌に調べなくても創作活動はできるものである。 先人のことを調べたり自分の創作がどういう文脈にあるのかを調べることは、創作活動を始めるのには全くもって必須ではない。

なんだったら、昔の人の何かを引用とかして作ったりというのはなんか自由がないように感じられたりもする。 自分ひとりで好きに作るのではなく、他者の作品を受けて何かを作ったと表明するのはなんだか自由さがなく窮屈に感じられる。 知識があると文脈を語り出すし、文脈の中にしか自分のを位置づけられないようで、知識をつけることが不自由になってしまったように見えなくもない。

自分を文脈の中にはめ込んで、自由にやることができなくなっているんじゃないか? 自分のやったことはこの文脈を汲んでいて、こういうことを考えて、とか語り出したりするのは本当に自由に好きにやっているのか? 何か語ったり考察したり、そういうのが好きな厄介オタクになっているのでは? もっとフレッシュに楽しんだらどうだ、みたいな気分になってしまうこともある。

が、これは文脈から自由になれると素朴に信じている考え方だと言える。 創作などは自覚しようとしまいと、ある種の文脈の中にあるものでもあるはずだ。 文脈を無視して知らないという態度を取るだけでは、文脈から自由になれてはいないのかもしれない。


知識マウント取ってくるやつが気に入らない

先人の何の影響を受けている、みたいなことを知識マウントのために使う人もいると私は感じている。 「これは○○の影響ですね」という知識をクイズのように楽しむ人たちがいるのではないかと。

創作をするにおいて、無自覚なものも含めれば影響したものが存在しないということはそりゃあないんだろうけれども、何の影響を受けているかのクイズの題材として自分の作品が扱われるのは作ってる身からしたら気に食わないだろうし。 この作品は何かの影響を受けているとか、そういう知識を語りたいだけのオタクみたいな態度は気に食わないものである。 知識を振り返ざして色々知っていることで偉くなったような感じで、知らない人を「まだまだだね」と言って小馬鹿にするというか自分が知っていることの優越を感じるとか、そういうために知識を使う人が世の中にはいると思う。 こういう人たちを私は何か気に入らないなあと思っている。

一方で、やはり何がしかの影響は受けて作っているわけで、私はこういう影響を受けて作りましたと表明するのは謙虚な行為でもある。 また、人の創作についてもこういう作品の影響を受けているというのは分析として普通に行われる行為でもあるだろう。 分析という行為は分析であって、別に知識マウント取って「他人より知っているんだ」という自尊心を得るための行為ではなく、ただ純粋にニュートラルに分析してる人はいるはずだ。 そういう謙虚な心やニュートラルな分析を信じられないのは私がひねくれすぎて不必要に悪意を人から感じているだけかもしれない。

謙虚に影響を開示したりあるいはニュートラルに分析したりしているのか、それとも知識量でマウントをとったりするそういうノリのためにマウントのために文脈を語ったりをやっているのか、あんまり気にしすぎてもよくないとは思う。 無闇矢鱈に他人に悪意を見出すものでもないかもしれない。


知らないでいるのは本当に自由にやっているのか?

好きにやらせてくれ、というのは自由にやらせてくれ!という意味も含む思うが、真に自由だろうか?

好きに自由にやっているつもりが、自分の生まれ育った環境から受ける影響に思いっきり縛られている、ということはままあるだろう。 そういう好きにやっているようで好きにやれていないことに気がつけるか、みたいな話で知識が重要ということもあるかもしれない。 好きにやることが新しい今までにないことをできるとは限らず、なんだったら凡人が自由な発想でやると、誰かと似たようなものができるだけだったりするわけで。 そんな中で新しいことをやるには既存のことを知らないといけないかもしれない。

まあ「既存のものとかぶっているかどうかすら気にせずに好きなことをやりたいんでい」っていうのも好きに自由にやっているといえばそうではある。 好き勝手やっているという意味の自由ではあるとは思う。 自分が知らぬ間に植え付けられている文化などからは自由ではないが、別にそういうものから自由になりたいのかどうかというとそうではないことも多いかもしれない。

自由にも、自分が思うままに作りたいという話と、色々なしがらみから自由になりたいという話で別のことのようだ。 そして前者はたとえ縛られていたとしても、そして縛られていることに気づいていなかったとしても、自分が自分の思うように作るということは実現可能ではある。

自分が生まれてこの方生きてきて良いと思ったものを作りたい、生まれ育った価値観で良いと思うものを作りたい、というのが創作のモチベだったりしたら、「その生まれ育った価値観は誰かに作られた不自由なものかもしれませんよ?」と言われても「は?それで?」という話だと思う。 誰かに作られた価値観から自由になりたくて創作しているなら、「その生まれ育った価値観は誰かに作られた不自由なものかもしれませんよ?」という指摘はクリティカルだが、普通に生まれ育った中で身につけた価値観で良いものを作りたいという目標の人にとってはその指摘は全くもってどうでも良いことではある。

知識なく自由に好き勝手やることは、ある意味では本当に自由にやっているが、一方である意味では思いっきり縛られていて、そして縛られていることにすら気づけないから自由のつもりであるということもあるわけで。 でも別に縛られていることに気づいていないなら、自由に好きに楽しくやっているつもりになれているから良いという話でもあるかもしれない。

主観的には間違いなく自由に好き放題やっているのかもしれない。 自分の作りたいものやりたいことを自由にやっている。 そういう人が、客観的見れば詳しい人から見たら全然自由ではなく縛られまくっているように見えるかもしれないが、本人が自分で楽しむためにやりたいというモチベでやっているなら、別に歴史のことを知らなくてもよいのかもしれない。

主観的に自由であることと、客観的に見ても様々なものから自由に作られたものであること。 知識をつけるということは前者より後者を目指してそうな気もするが、後者がどうして求められているのかよくわからん。


創作や鑑賞に知ることを要求するのは新参者に厳しくならない?

リスペクトや、既存の先人の活動を知った上で自分のものを位置づけるのは、それこそ新規性を考える土台にもなるし、ちゃんとリスペクトを持っていてよろしいことに見える。 しかし、まあこれはハードルは高い気もする。 すべての人に文脈を理解した上での創作や鑑賞をしてもらうというのも無理があるかもしれない。 そうなってくると知識を持った上で創作や鑑賞を行う人だけでコミュニティが構成されるということはなくて、知識や文脈を知らない人というのはどうしても生まれるとは思う。

知識マウント取ってくるオタクは嫌だ、という話は先に書いたが、一方で「これくらいのことは知っておいた上で見ないと文脈を理解できないよなあ」というものが知識や文脈を知っている人側にあるとなれば、たとえ知識マウントを取りたいわけでなくても、外から見れば知識を持っていない知らない人をある程度区別するような態度にならざるを得ないこともあるかもしれない。 なかなか難しいところである。

マウントを取っているというのは私が悪意を無駄に読んでいただけであって、実際のところ世の中の知識ある人が知識ない人にちょっと微妙な顔をしたりして見せるのは、こういう話だったのかもしれんわね。

どちらにしろ新参者には厳しい世界を構築してしまうことには変わりないとは思う。 リスペクトをするというのは謙虚になっている気がするが、一方でその態度を他の人にも要求しだすとそれは結構他者に厳しい態度になりかねないかもしれないということなのだろうか? とはいえ、同じ目線で知識を持った上で語り合える人も欲しいよな。 「知識持たずに楽しめます!」とは言うけど、そうは言ってもやはり知識を持った方が楽しいだろうなあとかそういうのはあるかもしれないからね。


そして、現代において芸術において知識や文脈を知るというのは別に一部の物好きがやる行為でもないのかもしれない。 芸術とか創作する上で色々知って自分の制作を位置づけるのが大事、というのはまあ近年の芸術活動ではよくあることなのだと思うし、現代美術とかもどういう系譜で出てきたのかとか影響を受けた思想とか色々関連情報が重要そうだし、芸術作品を見るのに知識があったほうが良いというのはもはや真なのだとは思うけど。

でもそういうの外から素朴に鑑賞する人からすると、これを知った上でないと理解できないと言われるようでは、門前払いされているようなハードルの高い場所に感じられてしまう。


これがエンタメの世界だとまた話が違うのだろうなとは思う。 エンタメなら知らなくても楽しめるほうが良い。 知っていた方が楽しいのは良いけど、知らなくても楽しめるように作られたほうがエンタメとしてよくできているのだと思う。 しかしエンタメではなく、より一般の芸術となってくると知識がなくても楽しめるべきかわからないなあ。 知識ないと楽しめないものも存在を許容されている方が世界が豊かな気がする。


学術論文とかってそういう世界だよね?

学術論文は自分の論文が文脈の中でどこにあるかを位置づける必要がある。 新規性を位置づけるには既存の論文を洗い出して、これらの論文では行われていないこういう新しいことをやりました、という話をしたりするわけで。 既存の論文からどういう差分があるかという話をして新規性を主張することになるので、既存の論文やその論文たちの分野の流れを知った上で、その流れの中に自分の論文を置く必要がある。 ちゃんと引用していないと引用が足りないと言って査読で文句が付く。 既存の論文の流れを理解した上で、そこに何を付け足したのかをちゃんと位置づけないと門前払いされる分野だ。 少なくとも私がいる分野は。

これがワークしているのもなかなか面白いが、学術論文の世界はそういうものだと当事者が納得しているというのが大きいだろう。

一方で、芸術鑑賞とか創作の世界がこの学術出版と同じようにちゃんと引用しないといけないという文化になりきれているかというと、そうでない部分もありそう。 少なくとも一般人からすると素朴に知識なしに見て鑑賞して楽しめても良いんじゃないかと考えてしまう。

誰の影響を受けてどういう技法を使って、とかとかそういうのはただのウンチクであって芸術そのものの価値ではない、という気がしてしまうが、これも素朴すぎる感覚なのかもしれないし。

なまじ、美しい絵画とかは何も知らなくても美しさがわかる気がしてしまうから、この辺りが難しいのかもしれない。 しかし、本当に何も知らなくても美しさがわかるのだろうか? 美ってなんだろうか? 感性で理解するってなんだろうか?


そもそも芸術や創作ってなんだ

ここまで色々書いてきたが、そもそも美術とか芸術の鑑賞とか創作とか、そういうのが何なのかということについて既存の議論を私が知らなすぎるなということを思った。 このあたりを考えていると芸術とか鑑賞とか創作とか一体なんなんだという気がしてくる。

「単純にその作品が持つ美を見る」みたいな素朴すぎる芸術観ではない、もっと現代的な芸術観を私は知っていった方が良いかもしれない。 私はあまりに芸術というものの見方を知らなさすぎる。

この辺りの話なんて、きっと既に世の中でたくさん議論されているはずなのである。 何か美学とかそのあたりなのかな? 哲学者が美術や芸術について語ったりすることも多かったように記憶している。 そのあたりの本を読んでみた方が良いかもしれない。


ということで、そのうち美学とか芸術とは何かとか芸術に関する哲学とかそのあたりの本を読んでみたいわね。 多くの哲学者が芸術とは何かについて語っていたりするし、美学という分野も興味があるし。 こうして読みたい本がまた増えるのであった。 積読が大量にあるので、どうしたものか。

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References

  1. 1. shivaduke (@shiva_duke28) on X