彼女がいるか聞かれること / 自分の恋愛観とか
これは何の記事?
先日、とあるアスリートの方が自身がゲイでありセクシュアルマイノリティのひとりであることをカミングアウトしたらしい。 それが SNS などでも話題になっていたらしい。 私の TL には全然流れてこなかったので、色々タイミングが遅れてその存在を知ることになった。
この記事はこの話題について自分なりに考えたことをまとめるような記事のつもりでした。
SNS で話題を呼んでいた渦中の時には全然知らなかったのだけど、何かの拍子に関連するツイートで興味を引かれたものがあって X で流れてきていいねを押したら、おすすめ欄がその話題でいっぱいになってしまった。 その過程で色々な意見を見たので思ったことを書くという趣旨の記事を当初は目指していた。 特に、カミングアウトした人への意見への意見が面白く感じたのでそれについての記事を書いていく予定だった。
カミングアウトした人に対して、「なぜわざわざカミングアウトしたんだ」という意見がついて、それに対して LGBTQ+側の立場からカミングアウトの必要性と LGBTQ+としての苦痛などについて投稿されているものを見かけて、私自身は LGBTQ+ではない側の人間なので興味深く読んでいた。 その中で、LGBTQ+ではない人が他人に LGBTQ+ではない前提にした会話とかをすることがあり、それが苦痛になりうるという話がされていた。 その具体例として「彼女は?」みたいなことを会話の中でされると嘘をつくか濁すかみたいなことをしないといけないという、そういう違和が常に積もり続けるのだ、という話が挙げられていた。
これらの意見に対してなるほど、と思う一方で、しかし、そもそも「彼女は?」というような質問って別に LGBTQ+の人相手でなくてもかなり暴力的な質問じゃないかと私は感じた。
そしてそれらについて考えを巡らせるうちに、思ったより自分の恋愛観が若干世間とズレてるのかもなあとも思ったので、記事に書こうとしていた内容が変化していって、最終的にはその私の恋愛観についての話がこの記事のメインになってしまった。
人の性的指向の話を踏み台にして自分語りをしているような割とお行儀の悪い記事ではあるが、自分自身がそういう同性愛的なものについてどう思っているかを考えることにも繋がってくる話でもあったので、私が自分の考えを整理するというような意味合いで書かれていると思ってほしい。
書いている際中にも考えが変わっていったりしていて結構混濁していて読みにくいかもしれないので、まあ無理して読む必要なるものでもないかもしれない。 あくまで私が自分の考えを整理する過程で吐き出された文章でしかない。
私のLGBTQ+とかに対する立場
この記事を書くにあたって、私の LGBTQ+の人々に対する立場を明確にしておこうと思う。
こんな話題について書いていながら、私は LGBTQ+について全然知識がない側の人間である。 LGBTQ+一般に全く興味関心を持ってこなかった側の意見として結構その手の人から見ると心無い暴力的な意見になっていたりするかもしれない。 そもそも LGBTQ+の頭文字がそれぞれなんなのかもよくわかっていない程度の人間である。
基本的に私は他人のセクシャリティに興味ないのだと思う。 例えば友人がどのようなセクシャリティであろうと全くどうでも良いし、本当に心の底からどっちでもよくねという感じ。 LGBTQ+の人々のことはよく分かっているわけではなく、何かそういう人がいるんだなあと思いつつあまりよく知らないというのが私の現状の立場ではある。
現代において LGBTQ+の話は重要な話のようだから、私ももっと興味を持ったほうが良いのかもしれない。 この問題は無意識に異性愛前提の発言をしてしまうことが問題なのだから、興味ないのは中立というわけではなくどちらかというと、この問題においてあまりよろしくない態度をとっている側の人間な気はする。 この社会をよくしていくためには、ちゃんと興味を持った上でよくない発言をしないように気をつけていく態度が求められているんだろうなあ。
また追って LGBTQ+がどういうものなのか、またそれにまつわる議論は後で調べようと思うが、この記事はとりあえず冒頭の SNS の話題について思ったことを適当に書き連ねたものなので、あんまり行儀の良い意見ではない。 現時点でどう思ったかをメモしておくという意味合いの強い記事であって、ゆくゆく私自身が LGBTQ+とかを調べて詳しくなったときに、この記事で書いていた内容について全部ひっくり返す可能性はあります。
何かこの記事で書いたことについて後で訂正したりひっくり返したくなったら別の記事を書いて末尾のリンクから辿れるようにしておきます。
記事に割と他者への偏見や見下しがあるが……
また、この記事を書き上げた後で見返してみると、結構他人に対する偏見とか見下しのようなものが多数見受けられなかなかよくない表現もあるなあとは思いつつ、とりあえず速報的に冒頭の話題について取り急ぎ思ったことを書いてみたという感じなので、素直に書いて出てきた私の悪い偏見とか見下してるような表現も一旦そのまま残しておきます……。 恋愛などの話題で盛り上がる人を個人的にあまり好きではないのかもしれない……。 自分の素直な感想として残してあるが、気分を害されたら申し訳ない……。
カミングアウトした人への意見への意見
まずはカミングアウトしたアスリートの人に対する意見に対する意見としてどういうものがあったかをちょっとメモしてみる。
これらの意見は SNS 上で自身の自認がクィアであるとか、セクシャルマイノリティ側であるとか、そういう人たちとしての意見という形のものが多い。
クィアって何?
最初にちょっと話は逸れるがクィアという呼び方についてよく知らなかったのでメモしておく。
異性愛・同性愛の問題だけでなくそもそも性別が男女の 2 つに明確に分かれるという考え方自体が枠組みの押し付けでよくないよねという話があり、そういう文脈でそもそも異性愛とか同性愛とかその他のカテゴリに分けられるべきではないという考え方のもとで、名乗っていたりあるいはそういう文脈の学問としてクィアという呼び方が使われていたりするらしい。
このクィアという言葉は元は侮蔑的な言葉だったらしい。 しかし、それを本人たちがあえて名乗ることで肯定的な自己表現としてクィアというのが使われるようになったらしい。
ので、クィアを自認する人が自分のことをクィアと言ったり、あるいは学問としてクィアという考え方を扱うのは適切かもしれないが、一方で私みたいなマジョリティ側の人間が呼ぶのに使うのはちょっとセンシティブかもしれない。 自分で自分から名乗るには良いが、人から呼ばれるのはよくないかもしれない印象がなくはない単語なのかなという気もしないでもない。
ということで、この記事では LGBTQ+の人々という呼び方をそういう人々の呼び方として採用していく。 (まあこの Q はクィアやクエスチョニングを指す Q らしいが……)
見かけた同性愛への異性愛者からの意見への当事者からの意見
見かけた意見への意見として次のようなものがある。
まず意見として、同性愛はたまたま一過性で同性で好きな人がいただけで、別にセクシュアリティとして同性愛であると言えるわけではないのでは?みたいな同性愛に対する異性愛者の意見に対して。
私が同性を好きになったあの経験は偽物で気の迷いだったと思わせる文化圧力は相当恐ろしいものである。 その恐ろしさに気がつけないのはいかがなものかという意見。
当事者が非対称な片思いにならざるを得ずに、異性愛者より基本的な部分での孤独を抱えてしまいやすい状況でもある。 ようやく受け入れられたと思えた相手から、なんかやっぱり違うと言われることの恐ろしさとかもあるのではないかという意見。
何故わざわざ同性愛を公表したのか?と言う意見に対して。
男性アスリートについて「女性アスリートと結婚して最強遺伝子を残して欲しい」とか、アイドルに関して「彼女/彼氏いるに決まってる」とか、知り合いに対して「どんな女/男がタイプ?」など異性愛決めつけノンデリトークをかます存在がいるのだから、カミングアウトしないとそういう人々からの発言に常に違和を抱え続けなければいけないのだという意見。
当事者として異性愛決めつけトークをされた時に、この関係性で否定しカミングアウトして気を遣わせるべきか、それともなあなあにして他人と自分を欺き続けるのかというところで悩むのがしんどいと感じたりするなどの話もされている人がいた。
自分が「彼女いるの?」とか「結婚は?」とか「タイプは?」とか聞かれるたびに嘘をつかなければならない苦痛があり、その話に参加できない苦痛があることを非 LGBTQ+の人は知らないのだろうという意見。
ゲイであることを公表したことに対するネガティブな意見で、「自分がそいつから性欲の対象として見られるのが嫌だ」という意見があり、それに対する意見として。
そもそも異性愛者が恋愛対象の性の人を見たら全員性欲の対象としてしか見ていないのか? そうでない友人関係や恋愛関係やそして性欲の感情や、そういうのをごちゃ混ぜにしているのではないかという意見。
子供の頃に母親とテレビを見ていて LGBTQ+特集を見て、「娘がこれだったら泣くわー」ということを言われたことがあるという意見。 これだけ世の中の非 LGBTQ+の人の偏見は強いものだということ。
そもそも同性愛者であることを明かしただけで「そんなこといちいち言うな」と言われる社会は全くジェンダーに寛容ではない社会だという意見。
カミングアウトするか、ぼかすか、話を合わせて嘘をつくか。 この判断を常に日常的に迫られるストレスがある。 異性愛者はこの判断を一生しない。 1 つ 1 つの判断は小さくても、常にこういうストレスにさらされ続けることは耐え難いものであるという意見。
カミングアウトをしないと勝手にストレートということになるし、嘘をついてストレートであるふりをするとなると、大好きな人への思いを恥じているということにならないか、みたいな悩みも生じるという意見。
セクシャルマイノリティがカミングアウトしない限り、非 LGBTQ+として扱われる違和と同性愛者であることをうっすら忌避されながら生き続けないといけないストレスから脱出するにはカミングアウトしか現状手段がないという意見。
他にも色々意見があったが、カミングアウトせずにぼかしたり嘘をついたりというのを続けなければいけないストレスというのは私が想像できる以上に大変なことなのだろうなあと感じた。
意見への意見へ思うこと
私は男性なので男性の話をするが、特に品のない男性が集まったりすると、どの女の子がかわいいみたいなあまりに下品な話をする人がいたりする。 私はそういう下世話で品がない話題は本当に昔から苦手だった。 そういう品のない話題を平気で話す人とは基本的に距離を取ってきた。 現在では私の友人で少なくとも私と話すときにそういう話題を話す人はいない。 (友人が私のいないところで友人の友人と話すときはそういう話題を話すこともあるようだが)
そういう二言目には金と女の話をするような下品な男性がいることは知識としては知っているし出くわしたこともあるが、基本的にそういう人とは関わらずに生きることができてきたし、私自身はそういう話は全くしたくないと考えている。
「彼女はいるのか?」という質問も私の中ではそういう品のない発言のカテゴリに入っている。 そして私自身はそういう発言はあまりしないし、私の周りにもそういう発言をする人はあまりいない。
そういうわけなので、そもそもそういう LGBTQ+ではない人のコミュニケーションで、そんなに彼女とか恋愛関係とかそういう事柄に依存したコミュニケーションが多数あるというのが意外だった。
「彼女いるの?」とか「結婚は?」とか「タイプは?」とか聞かれるたびに嘘をつかなければならないという話があったが、そもそも「彼女いるの?」とか「結婚は?」とか「タイプは?」とかを日常的に私は聞かれることが一切ない環境で暮らしているので、そういう話題が一般的であるということを認識できていなかったわ。
確かにそういうあまり品のない話をする人は世の中には存在しているが、基本的に品がない話題であり基本的には大人な文化的な人として避けるべき話題だと思って生きてきた。 それに私は私の周りでそういう話題が出ることもないし、そういう人がいるということが若干衝撃である。 が、これは私が非常に偏ったコミュニティで生きてきたか、あるいは私が鈍感すぎて気づいていないかのどちらかだろう。
もちろん、上記で挙げたのはわかりやすい話だから挙げられていただけなのだとは思う。 それこそ「奥さん」みたいな呼び方とか家族の話とか、そういう日常会話の大半に異性愛が前提として埋め込まれているということの方が問題の本質なんじゃないかなあという気がしているけれども。 上で具体例で挙げられていた露骨なもの以外にもセクシャリティに関係している話題とかが多数あって、それがマイノリティの人を苦しめているのだろうし、だから私自身はもっと他人のセクシャリティに気をつけた発言などを心がけたほうが良いのかもしれないが……。
そしてこの「彼女はいるのか?」という質問は LGBTQ+とかに関係なく相当暴力的だよなとも思う。
少なくとも私の周りで私に対して「彼女はいるのか?」という話題を聞いてくる人はいないし、聞いてくるのは品がないやつだと思うし、普通に現代の文化人として相手のプライベートに突っ込まないような適切なコミュニケーションをしていれば出てくることのない質問だと思っている。 LGBTQ+ではない私でも、少なくとも私はとても苦手に感じる。 別に LGBTQ+の人に限らずされて気分の良い質問ではないのじゃないかと思う。
まあ LGBTQ+の人にとってはさらに質が違っていて、異性愛が前提にされていて嘘をつくかカミングアウトするかを迫られることがキツいという話なので、私が気分悪く感じるものとは話が全然違うかもしれませんが。 しかしそもそもこの質問が LGBTQ+じゃない人にとっても良い質問ではないなら、そういう質問する人は LGBTQ+の話以前にそもそも問題ある人なんじゃないかという気はしないではない。
また、クィアを自認する SNS の人々の中にもさらに多様な意見があるようで、「性別を気にしたくない」というのはある程度一貫してある一方で、パートナーと良い関係になりたい、性別を気にせずに恋人を作って甘い関係を楽しみたい、みたいな考えを持ってそうな人から、そもそも恋愛という形態自体が好ましくなく思っている人までいるように見受けられる。 パートナーは欲しいけど恋人が欲しいわけではない人から、性別によらず恋人が欲しいという人まで、考え方はそれぞれであるようだ。
そして、その異性同性に限らず恋人が欲しい、恋人を作ってその人と甘い感じの関係になっていきたいという要望がある人については、そういう要望がある時点でそうではない私から見ると異性愛者と同等程度に異質で不思議な存在というか、異性愛者と同じようなグループにいるように感じられる。
他人と恋人同士になるというのが当たり前と考えることは当たり前なのだろうか? 他人と恋人同士になるというのを当たり前と考えているという時点で、何か私とは違う世界に生きているようだ。 そこに異性を愛するか同性を愛するかという話以上の溝というか、自分的には理解しがたい考え方があるように思う。
パートナーを作るというのは恋愛関係になることなのか? 何かそういう恋愛関係を当然と思っている LGBTQ+の人に対しては、恋愛関係というものが当たり前でそうじゃない人など考えてもいないような態度の人もいるのを見かけると、マジかと思ったりはする。
そして、そういうことを考えるうちに、だんだん私は自身の恋愛観において人と若干ズレているかもしれないなという気もしてこなくはない。
世の中の人はもっと恋愛とか誰と誰が付き合っているとか、そういう話が好きなものなのかもしれない。 そして私が思ったより恋愛関係の話題を嫌いなのかもしれない。
私が「彼女はいるのか?」という質問に出くわさないのは、そういう恋愛を好きな人から私が距離を取ってきて、友達も少なくひとりで好き勝手生きているからそういう発言を目にしていないだけかもなあと。
思ったより世の中の人は恋愛の話題が好きなのかもしれない、というのは 1 つ発見ではある。 そうなると確かにセクシャリティが他と異なるとかだと違和を覚えることも多いかもなあというのも納得ではある。
私の恋愛観
そんな感じで、そもそも世間の人は恋愛を肯定的に楽しんでいるらしい。 私自身は恋愛が若干気持ち悪いなと感じているので、それについてちょっと書いてみよう。 正確には恋愛そのものというより、恋愛の中に含まれる暗黙的な中身も曖昧な契約が何か変だなと感じている。 恋愛自体は別に良いとは思う。
ということで、私が恋愛とか結婚とかパートナーとかどういう風に考えているかというのを書いていく。 私としてはこの考え方が非常に素直で普通なことだと思っているのだが、世の中の人はどうやら恋愛とかをもっと好んでいるらしいというのは何となく感じるところではある。 どのくらい世間と自分の恋愛観がズレているのかを以下でちょっと見つめ直してみよう。
それを書く前に、私は生まれてこの方独り身でパートナーもいたことがない、世間から見れば異常者と分類されるかもしれない側であることは書いておく。 こう書くと悲しくなってくる。 どうか彼女いない歴=年齢とバカにしたり異常者としてつまはじきにせず優しく接してほしい。。。 「彼女いない歴=年齢の野郎が想像で恋愛を語ってる(笑)」と言われると立ち直れないかもしれない。
束縛ってありえなくない?
まず、私の恋愛観として束縛とかは全くありえないと考えている。 しかし、ここが実は若干世間とズレているのでは?と感じたりするところでもある。
私の友人で恋人ができてからその恋人について SNS でつぶやきまくっている人がいるのだけど、それを見ると恋人に対する独占欲とかそういうのをあまり隠していなくて驚く。
他にも SNS とかからの聞きかじりの恋愛知識でしかないが、恋愛において次のようなことがあるらしい。
まず、相手には自分だけを見ていてほしいし嫉妬したりする、ということがあるらしい。 また、そのパートナーが自分だけ見てほしいということを述べて要求したり嫉妬しているさまを見てそれをかわいいと思ったり愛情を感じられると思ったり、それをさらに肯定的に恋愛感情として認識するということも行われていたりするようだ。 信じられないけど。
相手が自分以外の異性となるべく話してほしくないと願ったり、その願いを口にして相手に伝えて要求したりということが本当にありうるらしくて、そんなことが本当にあるのかという気持ちではある。
私からすると上記の態度は全く理解できないなあと思う。 ここで例え話をしよう。
あなたが私と友人だったとする。 そして私があなたに次のように言った。 「君は私と友人のはずだ、だから私の好きなゲームである特定のゲーム A 以外のゲームを遊ぶのは今後一切禁止だ」
このようなことを友人である私に言われたとしてどう思うだろうか?
突然好きにゲームを選んで遊ぶ自由を制限するようなことを言っているわけだが、こんなことを突然言われたら全く意味がわからないと思う。 何の根拠があって好きなゲームを遊ぶことを突然制限してくるんだという感じだろう。 「君は私と友人のはずだ」と言っていてそれを根拠にしているような物言いだが、別に友人だということが他人の遊びたいゲームを制限する根拠になるわけはなくない?という話がある。
何を突然自由を制限しているのか?そしてそれの根拠が何 1 つ根拠になっていなくない?全く理屈として意味が通らない意味不明でわけわからんことを口走り始めたなこいつ、という感じではないだろうか。 自由が制限されるのが嫌とかそういう話以前に、自由を制限する根拠もなければ権限もないのに制限しようとしてくる私の頭が完全にイカれているのではないかと疑うと思う。
これが、「恋人になったら私以外の異性の人と必要時以外は話さないでほしい」みたいなことにも全く同様のことが言えると私は感じている。 何の権限があって自由を制限してくるのだ、本当に意味がわからない、理屈も通っていないし何を突然口走り始めたのだ、という感じである。
これは、別に私が浮気したいのにその自由を認められていないとかそういう話ではない。 私だってパートナーができたら一途にそのパートナーのことを考えたりするかもしれない。 しかしそれは自発的に行うもので、それを他人が強制するとなったら意味がわからないし頭おかしい主張だなと思う。 その主張の頭のおかしさが理解できないという話であって、自由に浮気させてくれという話ではない。
ここでこの 2 つの「友人だから特定のゲーム以外遊ぶな」ということと「恋人だから私以外見るな」ということの間にはどのような違いがあるだろうか。
もちろん「恋人だから私以外見るな」ほど極端なものは少ないだろうけれども、恋人に対する何がしかの束縛が許容されうるという話は多かれ少なかれこのような話ができると思う。
結婚しているのに他の人と多重結婚するとかしたらやべーというのはあるだろうし、結婚しているのに他の人との間に子供を作りました、とかなったらとんでもない面倒事になるから、そういうのを避けてほしいというなら理屈としては通るとは思う。 しかし、そういう話ではない束縛というのが、恋愛関係で一般に受け入れられてそうに見えるのが非常に不思議に見える。
恋人への束縛が一般に受け入れられているのは、恋人同士が束縛しあうものであるというのが現代日本において社会的に一般的な常識として認められているから、そしてその常識の上で暗黙に付き合うということの契約の中に互いに束縛する権利というものが含まれているから、というのは大きな違いではあると思う。 ゲームを束縛するというのは現代日本社会において一般的ではないので誰にも受け入れられないが、恋人同士でお互いに束縛したりするのは一般的な考え方として社会全体で受け入れられているから、だからこっちは問題ないのだという考え方。
なので言ってしまえば現代日本において、恋人同士になるタイミング、お付き合いをすると決めることには、暗黙のうちにお互いにお互いの行動を曖昧に束縛しあうことに同意するという暗黙のあやふやな契約関係にあって、だから相手を束縛することが許されるし、相手が他の異性と近づいたことに文句を言う権利もあるということなのだと思う。
私個人的には、この他者と付き合うことに暗黙のうちにお互いを束縛しあう関係になるという契約が含まれていることが何か若干気持ち悪いように思う。
私は現代社会において、それぞれの人々の自由が尊重される社会であるべきだと思う。 そしてそのような社会を維持するためにも、現代的な文明人文化人であるなら他人の自由を制限するようなことをしてはいけない、と考えている。
例えば変な服を着ている人が外にいるとして、そういう人を変な人だとして排斥したり寄って叩いたり、そうまでしなくても奇異の目でジロジロと露骨に眺めたり、というような態度は現代的な文化人としてあまり良い態度とは言えないと思う。 変な人がいても見て見ぬふりというかそっと視線を外すことで、お互いに変と言われるような行動であっても他人に強く迷惑をかけない範囲内なら干渉し合わずにいることが現代的な文化人として取るべき行動だと思う。 例えば都会において自分の好きな服装を着て電車に乗っている人がいても何も起こらずにスルーされるのは、それこそ自由な現代社会においてあるべき姿だと思う。
私はそのような信念を持っているので、人々の自由にすることに干渉したり束縛して人の自由を狭めるようなことをやるのは、非常に気持ち悪い行為に感じられる。 現代的な文化人として 21 世紀の文明に暮らす人として、他人の自由を制限するのはちょっといかがなものなのかと思えているのだと思う。
そしてこの考え方は普通に恋愛以外では都会では当たり前に受け入れられているんじゃないかと思う。 他人がどういう服を着ていようと、中年男性がかわいらしいハローキティの携帯ストラップをつけていようと、ゴスロリ姿やジャージメイド姿の人が電車に乗ってこようと別に何も起こらないで普通に生活できているし、そうあるべきだし、そういうのが現代社会として普通であるべきだと思う。
そんな中で、なぜ恋人関係の話になると突然他人の自由な行動を制限するのが普通になるのか、個人的にはよく分からない。
私が仮にパートナーを作るとしても普通に相手の行動を束縛するのはちょっと受け入れがたい気がする。 何となく人の自由を制限するなんて気持ち悪い行為に感じられる。 さらに相手が私の行動を束縛してくるような人だと、束縛されることで自由がなくなるのが嫌というより、その自由を束縛することを当たり前に良しとする人であるということが、なんか受け入れがたいと思う。
恋愛はその中に暗黙的に束縛も契約に含まれているから OK という話なのかもしれない。 しかし個人的には契約は明示的であってほしいなあ。 もし相手に行動を変えてもらいたいならそれはちゃんと明示的に示されるべきだし、明示的に契約としてお互いに合意してからその要望が意味をなすと思う。 暗黙的なうちに勝手に相手の自由を束縛しても良いし相手からも自由を束縛されても良くなるという、そういう暗黙条件が含まれた契約というのが一般にまかり通っている世の中というのがなんかあんまり現実味がない。
もちろん世の中のカップルたちについて、お互いが同意の上なら束縛しあうことを前提に付き合うのもその人の自由だし、他人の自由に口出ししてやめるべきだと主張するつもりは全くないので、好きに束縛しあうカップルが生まれてくれても何の問題もないし構わないとは思っている。 しかし、そういう束縛しあうカップルというのが一般的なのだとしたら、日本の現代の恋愛観というのは結構不思議な社会だなあと思う。
その手のカップルは自由にしてくれれば良いと思うけど、自分はそういう恋愛は気持ち悪くてできないなあと思う。
この私の考え方に対して、「世間一般では恋人同士束縛しあったとしてもそれは普通のことだ」ということから私の考えの方がおかしいのだという主張をする人がいるかもしれない。
それについても思うことがある。 世間一般で受け入れられている考え方というのが必ずしも問題ない考え方とは限らないと思う。
例えば昔の日本においては女性は学校に進学するよりお嫁さんになるべきだという意見が普通にまかり通っていた時代があったのだと認識している。 しかし、今になって大学に行きたいと考えている女性に対して「お前は大学に進学するべきではない、女性は花嫁修行をすべきだ」などと主張する親父がいたら、相当やべー時代遅れのとんでもないやつということになると思う。
女性の勉学や進路に対する自由を制限するのがまかり通っていた時代があるが、別にそれは正しいことではなく後年になればそういうのがおかしかったと理解されている。
同様に恋人の自由を束縛するのが当たり前としてまかり通っているが、普通にこれはおかしいことで何か正しくないというかおかしいんじゃないかなあって感じています。 もちろん上記の例だけからは、世間一般の常識が正しいとは言えない、という話でしかなく世間一般の常識である恋愛観が間違っているということは導出できないけれども。 個人的な思想として、何かおかしいんじゃないかなあって。
いや、別に付き合うときにお互いがその束縛に納得しているなら文句はないと言えばないのだけど。。。 なんというか相当変な考え方が当たり前になっているのでは、とは感じているというべきか。 だから正しくないというか、なんか変だなと感じていると言うべきかも。
基本的に現代においては個人の自由が尊重されるべきだし、他人の自由を侵害するようなことは避ける方が美徳だと思っているので、何かそれと反している現代日本で一般的な恋愛観ってなんなんだという感じを常にうっすらと感じている。
それじゃあどういう人とパートナーになりたいのか?
それじゃあ私はパートナーとしてどういう人を求めるのかということも、せっかくなので自分なりに軽く書いてみよう。
私はパートナーとは、お互いに独立して個人で自立して生きていける人どうしで、お互いに基本的に干渉せず別々に好きなことをして暮らしているべきだと思う。 そして、それを前提にお互いに自由に好きに生きていくという前提の上で、なお一緒にお話したりするのが楽しいから一緒にいても良いな、という感じが望ましい。
時々お話して楽しかったりするけど、相手に甘える形で相手の時間を奪ったり行動を縛ったりすることはあまりしたくないし、相手の時間を取るならちゃんとお互いに納得している状態であるべきだと思う。 私は自由に自分のやりたいように生きていくし、相手にも自由に自分の人生を生きて自分だけの何かを追いかけていてほしくて、それを時々お互いの人生について見せあって話せれば良いなと思う。
そんなの友達でも良いじゃないかと言われればそうかもしれないが。。。 実際別に時々話をするので十分で一緒に暮らす必要とかは全くないと思うし、あんまりパートナーっぽくないものでも十分かもしれない。
何にしても私がパートナーに求めるのはそういうことなので、パートナーと一緒に暮らしたいとか相手と触れ合いたいとか相手のことを四六時中考えたいとか、そういうことは一切ないなあ。 相手には完全に自立して独立して生きていける人であってほしいし、そういうひとりで生きていける人が、それでも一緒にいると楽しいから、という理由で一緒にいるというのが非常に尊いと思う。
前提としてそういう自力で自立して生きている人同士であるというのが私のパートナーに求めるところだと思う。 お互いに相手がいなくてもなんの問題もなく暮らしていけるけど一緒にいると楽しいねというのが良い。 「相手がいないと生きていけない」みたいなのは自分がそう思うのも相手からそう思われるのも全く求めていない。 世の中の恋愛模様とかを見ると相手が自分のすべてだとか、相手がいないと生きていけない、みたいなそういう過激な熱い恋愛というのもあるらしいが、そういうのは完全に not for me だなあ。
お互い相手のことを全く考えずに基本的に自由に生きていて、時々会って話すと全然違う人生で面白いね、という感じで、それでいて物事に対する考え方とかの相性がよくて話すと楽しい、みたいな人だとよいという感じ。 これが私がパートナーとの間に求めるやりとりの像である、これ以上のやりとりはあまり求めたくない。
そして、そういう理想のパートナー像とのやりとりとは別にパートナーに担って欲しい役割というのがある。 そっちの方が私にとってパートナーがいたらいいなと思う理由ではある。
パートナーに求めるもう 1 つのこととして、例えばどちらかが怪我や病気になったときに助けるとか、あるいは死んだときにその資産を処理してもらうとか、そういう役割をお互いに担うということをやりたいと思う。 これはもちろん事前に取り決めをしておいてお互いに相手を助け合うことに納得してある種の契約的なものを交わしている状態での話である。 無条件で勝手に相手の好意にフリーライドしたいという話ではなく、お互いに負担を分配する関係として事前に了解しておきたいと思う。
そういうときに家族なのかただの友人なのかというのは扱いが違いそうに思っている。 あんまり本気で結婚について考えたことがないのでよく分からないけど、結婚した方がお互いに対して助け合う上ではやりやすくなるような社会制度になっていると思う。
まあ、結婚という制度が色々な役割を持ちすぎている問題があるわな。
私としては一緒に暮らして助け合う共同体であって結婚して子供を産み育てるための支援までは必要ないが、例えば脳死状態になったときの臓器移植とかの判断を任せたいとか、そういうことをやるためには家族になっているかどうかは差がありそうだし、そういうところを任せられるくらい信用している人に任せるためには結婚するしかないというのは何か結婚があまりにいろんな意味をバンドルしすぎている気がするなあ。 まあ実はあんまり臓器移植がどのような手続きで行われるのか知らないけど。
私は上の方で相手を束縛したくないとは言ったが、その上でお互いに相手のためにこれらの重たい相手の手助けや死後の処理などを担ってもらいたいというのは、相手に労力を求めているかもしれない。 その意味では束縛しないというのは若干嘘かもしれないが。。。 なんというかお互いに相手に一定の負担を引き受けるということを了承しあえる関係にはなりたいかもしれない。 個人的に許せないのは束縛そのものというより、それが暗黙的で曖昧な契約になっていることかもしれない。 お互いにちゃんと明示的に了承した上でお互いに責任を持っている関係は私でも許容できるのかもしれない。
まとめると、私がパートナーに求めるのは上述の 2 つ。
- 全然違う人生を生きているけど、時々お話をできる自分と会話して楽しい人
- 臓器移植とかその他家族しかできないような判断を任せるくらい信用できて、この辺りについてお互いに責任を負うという契約ができる人
そして後者については結婚するしかなさそうで大変だとは思っている。
何にしても一緒に暮らして四六時中相手のことを考えたり恋に盲目になる状態を良しとしたり、というのは私は理解できない。
そして恋をしたいわけではない、お互いにお互いのことを一番に考えて束縛もするようなそういう恋人関係のパートナーが欲しいわけではないと思っている時点で、そのパートナーが異性か同性かとかは些細な問題であり、結婚の制度上の問題で性別とかの制約はあるのを含めて結婚という制度は困ったものだなあという感じではある。
まあそんな私の立場は冒頭の LGBTQ+の人のカミングアウトとそれに関する意見が入り乱れた話に対してはどうでも良いことかもしれない。
彼女いる?の話についても、そもそも恋人がいるかみたいなプライベートな話をずけずけされたくないし、そもそも恋人関係というもの自体がよく分からない人間であるという話と、恋人が女性であると決めつけられる気持ち悪さという意味では全く別の問題ではあるしね。
恋愛を求めていようといまいと異性・同性に限らずパートナーが欲しい人が生きやすい世界になってほしいし、カミングアウトしないと違和を日々の生活で感じないといけないような周りが恋愛的でかつ異性のパートナーがいる前提の態度を取る社会は変わってほしいと思う。
私はそもそも周りから恋愛的でかつ異性のパートナーがいるかどうかを確認されたりするような環境にはいないし、そういうプライベートなことに突っ込んでくる人は全く周りにいないという状況で暮らしているので、日常的にそういうプライベートに突っ込むようなデリカシーのない人と暮らしているような日常というのがあまり想像はできていないが。 そこまで相手のプライベートに突っ込むことを躊躇しない品のない人でなくても、世の中には一般に異性愛を前提にした話題がたくさんあって大変なのだろうし、それらについてはあんまり自分が非 LGBTQ+なためにその違和に気づけないのかもしれない。
自分は違和に気づけない側だから、何かもう少しちゃんと気をつけたほうが良いのだろうなあ。 当たり前の話題とかも異性愛が前提になっていないか気にする必要がありそうだが、正直あんまり恋愛とか結婚とか的なことを話題にしないが、それ以外でも気にすべきことがあるのかは考えておこう。
自分の周りで私に対してその手のマイノリティをカミングアウトしてきた人はいないけど、そういう人がいたらどうするべきなのかわからないが、正直私は人の性的指向に全く興味がないので、カミングアウトされたとしてもされたことを忘れて普通の話題を振ってしまいかねないから注意しておかないとなあ。 あまり他人がどうであるかということに興味がないのかもしれない。
終わりに
ということで人のカミングアウトに乗じて自分の恋愛観を語るというなかなかアレな記事でした。
世の中の人が恋愛とか恋人関係とかそういう話題を好きなのだとしたら、若干それには距離を感じるかもなあと思いつつ、別に私は日常を生きてきて周りの人が恋愛とかについて私にあまり聞いてきたりしないし聞いてきても嫌な感じの聞き方じゃなかったりするので、まだ世の中に「彼女いるの?」とか「結婚は?」とか「タイプは?」と聞いてくる人が多くいるらしいということを信じられていないが。 いや、そういう人が世の中に存在するのは知っているけど、誰もが恋愛を求めてると思っていたり恋愛しない人生は劣っていると考えているような人とかって基本的にやべー奴だと思うし、そんなやべー奴とはあまり出会わない人生だったので。
もしそういう人が世の多数派なのだとしたら、若干私の恋愛観は世間の恋愛観とは微妙なズレはあるかもしれん。 まあそれで私は苦労したことはないし、LGBTQ+の人たちの感じる苦労というのは非常に大きいものであろうことを考えると、私の恋愛観が世の中の恋愛観とズレているかもしれないことは些細な問題だろう。
ここまで自分がズレているかも、みたいな論調で書いてきたが正直私は自分があまりズレているとは思っていなくて、私みたいな考え方の人は普通に世の中にたくさんいるんじゃないの、と思って生きてきているので、そういう意味でも全然世の中とのズレみたいなのが気になったことはないなあ。
そしてこんなことを書いておきながら、ある日突然私が恋に落ちて頭が焼かれて相手のことしか考えられないというようなそういう激しい恋愛をする可能性もないわけではないと思うので、上に書いたことは現時点で今私がそう思っているというだけで将来にわたってこの考え方で私が生きていくことを保証するものではない。
とはいえ、あんまり恋愛に釘付けになるような生き方を私がするのはあまり想像できないけどねえ。。。