春告げ抹茶ホイップ

「輪島裕介×唐木元『日本ならではの音楽』と『文化の脱植民地化』をめぐる対話」を読んだ

だいぶ前に X で流れてきた以下の記事を読みました。 そして色々と考えさせられることがあったので、雑多に取り留めなく考えたことをメモしておこうと思います。


タイトルだけ見た時点での感想は、「うるせえな好きにやらせろ」ではあった。 以前にも創作活動と「好きにやらせろ」については思ってることを書きなぐったことがある[1]が、そんな感じである。

それこそタイトルだけ見ただけではかなり内容に警戒していて、例えば、上から目線で日本のルーツを知りもせずにやっている程度の低い奴らを教育してやろうという魂胆なのではないか、という感じのかなりひねくれた見方をしたりもしていたが。 でもまあそういう変に斜めから悪意を読み取ろうとするより、普通に素直に読めば非常に面白い記事ではある。


記事の内容をかいつまんだメモ

以下に内容をざっとかいつまんで自分なりに書かれていたことを箇条書きしてみる。 この箇条書きは自分の気になったことを中心にメモしているので、元の記事が言いたかったことについてはちゃんと元の記事のほうを読んでもらう必要がある。

  • 我々には西洋的なものをカッコよく思う価値観が存在したりする

  • 音楽でいうと西洋のコード進行に基づいて展開されていくようなコーダルな音楽に特化した形になっている

  • フランツ・ファノンの話を引用している

フランツ・ファノン(※)のことを思い出してしまう。彼が言うには、植民地の人間は、まずは自己否定をしなければいけない。自分たちの土着の肉体や土着の音感をダサいものだと考えなければいけない。それから「白い仮面」をかぶらなければいけない。自分達があたかももともとバイオリンを弾いていたようなツラをして、自分たちの歴史と記憶を抹殺しないといられない

  • コーダルな西洋音楽だけでなく、世の中にはモーダルな原理による音楽が多数あったはず

  • さらにいうとコーダル / モーダルという考え方自体が西洋的な目から見た分節であるという話

  • 音楽をお稽古と発表会の様に演じてしまう日本人について

    • これは西洋の正しい音楽を模倣するというのが音楽のゴールになっていることの証ではないか

「バックビートおじさん」とか「横ノリおじさん」みたいな人たちがいるじゃないですか。俺はあの人たち自身より、それを支持している層がしんどいなって思ってるんです。つまり、教条的に自己否定をしているっていう意味で。日本の津々浦々に、なんか劣等感の権化みたいな人たちがいっぱいいて。きつい言い方になるけど、健康的な自文化愛を妨げる存在だと思っているんです。

自分は本場を知っている、お前らは知らない」という、落差に基づいたコーチ稼業ですよね。たぶんそういう人たちが、ジャムセッションで変わったことをやる人を叱る側に行くんでしょうね。

  • 一方でだからといって日本独自の良いものを、という話をすると「日本すごい」とか排外的な態度になったりする

    • 西洋の思想には植民地的に取り込まれているが、一方で他の文化圏に対して帝国として侵略国をやっていたということも向き合わないといけない
  • ヤマハの果たした功罪について

    • 良い音楽の感覚を日本人にインストールしたのは YAMAHA ではないかとか
    • 音大で習うようなコード進行とかの内容がボカロ曲とかでもそういう教科書的なものが強化されている
    • ポップスとか、あるいはクラシック中心主義が全然抜けていない
    • 音楽教室と発表会のシステムとか
  • 仮面ライダーのように

    • 西洋の音楽の知識(ショッカー)の力を使いつつ、ローカルの音楽を行うというのはありうるのでは
  • 日本の民族固有のリズムみたいなのはないよなあという話

  • 自分たちの音楽を獲得するのと、排外的なナショナリズムとの結合しやすさの話

  • 伝統に対する歴史とかをちゃんと伝えていくことの大事さ

    • 神話的な伝統に対する解毒効果として歴史をちゃんと学ぶのが重要
    • 「日本の伝統文化の演歌」という話に対して、せいぜい演歌が今の形になったのは 50 年前程度だろう、みたいなことを言えること

たとえば「黒人の魂」のように語られるブルースだって、要素に分解してしまえば、西洋由来のギターという楽器を使っていて、和声的にもほぼほぼ西洋音楽のフレームワークに収まるものですよね。でも、それで、黒人は自分たちの誇りを獲得することに成功した。なぜかと言えば、自在に曲が伸縮する即興性やコールアンドレスポンスみたいな奏で方が、他ならぬアフリカ的だからです。西洋の道具でも使い方によって脱西洋性を展開することができる。その意味では、我々がいま持っている、西洋音楽由来のセオリーであるとか、もしくは肉体的なディシプリンとかも、それをうまく乗っ取って運用することができれば、我々が劣等感に苛まれず胸を張れるような、借り物じゃない自分たちの音楽というのを、獲得できる日が来るかもしれない。

洋楽というのはけっきょく「日本の中で外来の権威性として機能する音楽」の総称なわけですよね。だから、洋楽というのは日本にしか存在しない。K-POPは洋楽に含めるのか、みたいな議論がありますけど、そうした認識の枠組み自体が問題なんだと思います。借り物にも、いつの間にか身につくタイプの借り物と、いつまでも借り物であり続けるものがあると思うんですよね。ラーメンやカレーライスまでも借り物と見なすのか。そのぐらい熟れていればもう日本のものだよね、というふうに見てもいいのか。実態として変わるべき部分もあるけど、我々の歴史の見方が変わることで見えてくるものもあるんじゃないか、と思っています。


記事を読んだ個人的な感想

まずもって、この記事で述べている音楽の詳しい話は私が音楽に全然詳しくないのでよくわかっていない。 その上で、この記事の課題設定があまり理解できなかったなあという感じがあった。 以下で音楽以外の部分が中心になるけど、感想を書いていきます。


私が音楽が詳しくないので海外を至高と考える人がいるという話からあまり現実味を感じていなかった。 これは私が普段ゲーム音楽とかボカロ曲あるいはクラシックしか聞かないからだろうし、音楽における思想とかもなにも知らないからだろうなあという気はする。

一応、そういう海外の音楽が至高だとする人は一応高校時代に同級生にいたことがある。 その人は洋楽こそが真の音楽であり、当時出始めていたボカロとかで作られた楽曲はちゃんとした音楽じゃない、というような価値観を強く持っていた人ではあった。 まあ、高校生なのでちょっと大人びたものがかっこいいと思っていただけな気もしないでもないが。 とはいえ、海外のものこそ至高として他を見下している感じは、まああまり見ていて良いものではなかったかもしれない。

私が関わることもある CG の分野でも海外を至高とする人たちは一定いたなあというのは思い当たったりはする。 少し上の世代にディズニーピクサーの CG こそが真の CG だと信じる人たちがいて、アニメ CG とかは本来やりたいものではない、というような人たちもそれなりにいたらしい。

とはいえ、そういう考えの人を問題として取り上げないといけないほどメインストリームの考え方だったのか、というのはちょっとよくわかっていなかった。 でも、セッションの場でもこうするべきだ、本場はこれなんだということを言う人と、それを支持する人がいるという話が出ていて、そういう状況なんだなあという感じ。


そして、芸術のスタイルなどが植民地支配されていることについて。

植民地支配された西洋の文化圏を良しとするような文化を辞める必要がある、という立場を受け入れるとこの記事の言っていることはそれなりに納得感ある話のような気がする。 如何にして西洋的になっている今の状況を変えていくべきか、それと同時に排外的な考えに陥らないようにするにはどうするか、それらの議論は面白いものではある。

しかし、わたしにはその西洋の文化圏をよしとする文化をどうしてそこまでしてやめなければいけないのか、という部分がまず飲み込めなかったなあという気がする。


自分の好きと思っているものが特定の文化圏の影響を強く受けているとしてそれがどのように問題なのだろうか? 自分が疑うことなく好きだと思っていたものを疑ってみたりするのはまあ悪いことではないかもしれないが。 自分の好きと思っていたものが外部からコントロールされた作り物なんだぜ、本当の自分のルーツを踏まえた好きを見つけろ、という話だと正直よく分からない。 自分のルーツは、幼少期から西洋の音楽を聴かされる環境にいたのなら、西洋の音楽がルーツになっているのだろうし。 ここで無理に自分が聞き馴染んでもいない日本の古来の音楽を持ち出しても逆に胡散臭いだけでは?

黒人の音楽の話とか白い仮面の話は確かに問題であるとは理解できる。 しかし、これは日本に住む人と同じ問題なのだろうか? 黒人は自分たちの音楽がありそれを演奏したいが、それでは売れないから白人の音楽をやっていたとかそういう話で、さらに、黒人の中でもインテリ層は白人の文化を取り込みそれを良しとしていたから、黒人の音楽に当初黒人のインテリが反対したという話もあったけれども。。。

これは食っていくにはどうするかという資本主義の話が混じっていると思う。 資本主義下で売れて食べていくためには、売れるものを作らないといけなくて、市場に迎合することになるのは当然であると言える。 そして市場とは別に自分の好きなものをやる自由は売ることを考えなければ存在する。 自分の国のルーツで食っていけるような市場があるべきだ、という主張はそれはそれで別途あるにしても、自由の話とは別な気がするなあ。 もともと自分の好きな音楽をやる自由はあったのだろうし。

それに対して日本で生まれ育って別に日本の民俗音楽に興味なく西洋の音楽で育った人は、そもそも自分の好きな音楽をやるという時点で西洋の音楽を選ぶのであって話が違うことのような気がする。 黒人が黒人の音楽をやりたいけど、売れないし仕方ないから白い仮面をかぶった話と、日本人が元々西洋の文化の影響下で育ち西洋の文化の影響下の音楽をやりたいと自分の好きな音楽は西洋の文化圏の影響下の音楽だ、という状況でなお西洋の音楽ではなく日本のルーツを見るべきだ、という話では黒人の白い仮面の例とは別の話な気がするなあ。


主観的に自由であることと客観的に自由に創作できているかは別という話を以前に書いた[1]。 白い仮面の話は主観的にも不自由なことなのでは? 他の文化の言葉を借りないと自分たちの文化の表現では何も表現を出すことができないのはまあ不自由だとは思う。 そういう意味で白い仮面については問題だと言われれば納得できる問題意識である。

一方でそれが他の文化の言葉だと自覚していない状態で、他の文化圏の物が自分たちの良しと思うものと完全に同化していたら、客観的に見て他の文化圏の物を演奏していたとしても、主観的には自由にやっていると言えるのではないだろうか? 主観的には自由にやっていても、客観的には他の文化の真似事になっていた、ということがあるとは思うが、その場合には主観的には自由なのだと思う。 その主観的に自由にやっているのは知っている人から見れば全く自由でないのに自由のつもりでいるのが滑稽である、という難点はあるかもしれないが、本人からすれば楽しくやっているかもしれない。 黒人の方が自分の音楽をやりたいけどやれないという話と、そもそも自分の音楽のつもりで他の文化圏の音楽を演奏しているという話は何か違いそう。

そして、そこから主観的に好き放題やっていても客観的には他の文化圏に染まっていたとして、そういう人たちがなんで自分の文化とか歴史を見つめ直さなければならないのか、その根拠はなんなのかよくわかっていない。 素朴に、過去を知り自分の文化を知るのは良いことだ、という考えに基づいているのか、それとももっとちゃんとした理論的背景があるのかしら? なぜ自国の文化に向き合うことが良いことなのか?

自国の文化に向き合う方が今の世の中では各国のルーツを前面に出した方が売れるから、とか言われたらまあそれはそれで納得はするが。 オリジナリティある各国の様々な文化がナラティブとして消費されるようになったから、各国の色を出した方が売れる、という話ならわかる。 が、別に売れるからそうしようという販売戦略の話ではなく、何かもっと自国の文化でものを作るのは良いことだという、より純粋な良さの話をしているように見えて、その良さの根拠はどこにあるのか気になる。

ここらへんも芸術批評とか議論とか色々ちゃんと追いかけていればわかることなのかもしれない。 私にはこの辺の知識がなさすぎるのかもしれない。 芸術とか批評とかその他、この辺りの議論についての文献もそのうちちゃんと読んでみたいわ。


何にしても、植民地支配されていて思想が全く西洋の文化圏に染め上げられているとして、そこからその国独自のルーツに立ち返る必要性がある、というのは聞こえが良いしそうかなあという気もするが、本当になぜそうするべきだと言えるのかの根拠を私はちゃんと説明できないなあという気持ちである。

この記事は、自国のルーツで作曲するのが良いことであるというのは大前提として話が進んでいる気がするし、その前提はそれっぽく聞こえるけど、その前提がどこから出てきたのかを私は納得しきっていない。

そこに納得をしたことにすれば、それ以降の話で脱植民地化を訴えるだけでは「日本すげー」が出てきてしまうので、そういう変な方向に行かない必要もある、とかの話は非常にわかるけど。。。

そもそものなんで自国のルーツに立ち返らないといけないということになっているのか。 西洋の文化圏の影響下の日本で生まれ育ってそういう文化の中で育った人がオリジナリティを出すなら、全然馴染みのない日本古来の音楽とかを参照するより、その西洋の文化圏の影響下の上にさらにオリジナルなものを作っていくことも考えられるわけで、それの何がいけないのだろうか?

まあ、程度の問題ではあるとは思う。 洋楽至上主義厄介人みたいなのがいて、そういうのがコミュニティで力を持っているとかまでくると厳しさが出てくるのはわかる。 が、そういう厳しさが出てくるレベルで西洋至上主義に染まっているのがダメだからと言って、日本のルーツを見直すべきだというのも両極端では? その間はグラデーションで滑らかで個人の好きが西洋の音楽で育ってきた現代日本の影響下で育ってきたけど、完全西洋至上主義に完全に染まっているわけではない、くらいの立ち位置の人はそれなりにいるのではないか?

自分が好きだとなんの疑いもなく思ってきたものが特定の文化圏の思想のものだ、というのはまあそういうこともあるのだろうし、それを知って様々な文化圏での音楽というものを知るのは良いね、というのまでは納得するけど、現状は植民地支配されているのだみたいな強い言葉を使ってまでルーツを見なければならないということを語るほどの言葉の強さがどこから出ているのか気になる。


全員が全員、西洋の音楽の価値観でものづくりをしていると、文化全体の多様性というかいろんな音楽ができるのがなくなって価値の評価軸が 1 つしかなくてつまらない、というのであれば課題感としてはわかる気もするけれども。

評価軸を 1 つだけでなく、いろんな評価軸をもっていろんな音楽が出てくるとよい、という話ならわかる。 創作においていろんな評価軸があるべきで、そういう評価軸の異なる集団がいろいろあるのが大事だね、というのは以前に動画で自分の考えを述べたりしたもの[2]と近い

しかし、植民地支配されていてそこから脱しなければならない、とまで言われてしまうと、自分の好きに素直に作ることまで否定されるようで、なんだか受け入れがたいなあという気分になる。 そもそも自分の好きが植民地支配下で生まれたものだったとして、それを無理やりルーツをたどって矯正する必要が本当にあるのだろうか?

自分の好きなものが正しくない、と言われるような主張はあまり心地よいものではないし、自分の文化のルーツを見に行って文化的に支配されていることを確認していく作業も別に心地よいものでもないだろうし。 そうまでして心地よくないことを考えてまでやっていく必要性がどこにあるのか、というその根拠がなんだかはっきりわかっていないなあという感じ。


もっというと西洋的な文化圏に染められたとしても、その上で地理的に遠い位置で自由に好き勝手に環境も違う状況で音楽を作っていたら、別の音楽ができていくことはないのかなあという気もする。 自分たちの音楽を獲得する方法として、ルーツをたどる方法以外に、今の音楽の上に自分たちで好き放題アレンジしていくという方法もあるのではないか、という気がするけれどもこれは詳しい人から見たら拙い意見なのだろうか? 好き放題アレンジの「好き」自体が西洋を良しとする文化圏の中だったら、「好き放題」も西洋的なものの中に収まるのではないか、というとまあそうかもしれないが。

しかし、ボカロの当たりで色々な音楽が好き放題作られているのとかは私の目から見ると十分好き放題やっているように見えるけどなあ。 それもまだ西洋的なコーダルなものを良しとする文化から抜けていないのだ、と言われるとそうなのかもしれないが……。


色々考えてみたが、芸術についてそもそもとやかく言えるほど私は芸術まわりの思想などに詳しくないので、まずはそこらへんを知るところから始めていきたいなあと思うなど。

Series

References

  1. 1. 知識の量と、リスペクト vs 好きにやらせろの関係
  2. 2. 「小集団理論」 数理モデルでアートを語る / 「C4P」と「小集団理論」とクオリティの解体不能性

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